批評のメタレベル化という逃げ道

2009年08月10日 22:04

今日は総合資格に振り込みしてきた。晴れて浪人生。明後日テキストが送られてくるらしい。それから、一冊の本を途中まで読んだ。なんとなくそれ以上読む気がしなかったので途中でやめてしまった。

『思想地図 vol.3 』 著・編:東浩紀・北田暁大

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この本は、まず宮台真司、磯崎新、浅田彰らが討論をして、藤村龍至が文章を書いている(というかその部分を読んだ)。(呼んだ部分の)全体的な感想を言えば、まぁドグマにはまっているというか、正直前が見えない感じであった。

まず討論の方は「批評の場はどこにあるか」という議論であった。「批評性が失わせて久しい」というテーゼももはや紋切型になってしまったが、建築家の磯崎さんはともかくとして(実際討論会でも口数少なかった)、宮台さんなんかはやっぱり批評性がないと存在意義そのものが問われてしまうのだろうな(社会学者だからそうでもないのかな・・・?)

でも議論そのものが、結局論理のメタレベルに逃げている(?)だけであって、それはポストモダニストが延命の場として選んだ手段でしかないのではないか?と思ってしまう。批評が失われているという議題を批評家がするのだから、それはメタレベル化していくしか話の進展がない気もする。

その点、坂倉準三展における青井哲人氏の論述のように、下手にイデオロギッシュに攻めるのではなく、ありのままの環境変異を精査に追っていく、ということは非常に知的な方法論だと思う。ただ、安易なイデオロギーに陥らないと同時に、なかなか単一な理論に収斂しないという難しさもある。まぁ、青井先生は頭が良いので、そこら辺は大丈夫なんだろうなきっと。

もうひとつ、藤村龍至の論文であるが、例によって「批判的工学主義」を謳っていた。あらためて「そういうことをいっていたのか」と納得したが、でも、それってあたり前のことで、大なり小なり、デザイナーはみんなやってるんじゃないかなって思ったりする。最近の私の心理では、論理があってそれを応用した建築(まぁ実際そんなものはないのだが)は受け付けない。それよりも、純粋に(モダニズム的に)建築を作る方法論を考えた方が良い気がする。というか、私自身はそうしたいと考えている。

この本を書店で手に取ったのは、現在議論されている建築批評の現状を知りたかったからだが、なんとなく自分が把握できる程度で安心感はあったが、お先真っ暗という感も否めなかった。

少なくとも私のお先は明るくしなければならない。そのために夏休みの宿題をちゃくちゃくとこなさなくては。以下残りの宿題。

・「Floating Tea House」のコンペへの応用
・「風のイエ」の模型作製
・軽井沢、群馬の建築旅行
・読書(『1Q84』)
・スーツと靴を購入

明日から軽井沢と高崎に行ってきます。久しぶりのひとり旅。満喫しよ。


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