2009年07月03日 22:36
あと、話題のリクエストをしてもいいかな?先日のブログにちょっと出てたデリダなんだけど、確か脱構築の哲学者だよね?あんま詳しくないんだけど、なんであの人は建築関係でも有名なの?あと建築史から見てどういう意義があったと思う?
Kくんからのリクエストにこたえたいと思う。正直いうと、デリダに関してはほとんど知らない。というか、研究の対象としなかったので、できれば自分で勉強していただきたいというのが本音である。・・・が、それでも自分からみたデリダの意義について論じてみたいと思う。
デリダといえば、言わずと知れた脱構築運動(っていうのかな?)の旗手である。建築との絡みでいえば、デリダに一番近い位置にいたのはやはりピーターアイゼンマンじゃないかなと思う。日本だと、私としては藤井博巳大先生の作品がそれに近い感じがする。だけど、デリダの名前を知っている人は建築系の学生には少ないんじゃないかな?脱構築っていうと、なんかハチャメチャに壊れた感じの建築をイメージする人が多いが、これは根本的に間違っていると私は考えている。
まずデリダが発した脱構築とは何か。私なりにいえば「そもそも、私たちは自己の理性を背くように自己の論理をずらし、それが私たちの身体のなかに包含されている」ということじゃないかと思う。そしてそれは何を意味していたか、語弊をおそれずに言えば、近代哲学(広義には、哲学そのもの、そして論理、思考と人間の知の全般に及ぶが)を終わらせることにあったのではないかと思う。
近代の哲学がなしえたことは何か。近代哲学の父と呼ばれるルナ・デカルトという人は、世界の認知を「主観―客観」という二項対立に押し込めた。つまり、私がいて、その周囲の環境があるという、xyzの三次元空間をデカルトは想像した。これはいまだに我々の思考の根本のあるものである。誰だって自分がいて、その周囲に他人がいるという認識をもっている。
これが当たり前であり、必然であるとする人は、まずここから解体しなければならない。
主観―客観という構図は、近代以前には乏しかったとされる。なぜかといえば、世界の答えは神が知っていたからであり、物事の決定権を人間は持っていなかった。前にもブログに書いた気がするけど、近代になって科学技術が発達し、人間は「世界を知る」という権利を得た。世界は、人間主体となったのである。これはルネサンス以降の人文主義という。それが幾度となく否定され反復されてきたが、結局のところ、人間主体の物事の考え方は変わっていない。
さて、この近代の認識論において重要なのは、まず「私」という主体がいて、その外部に世界があり、そして真理があるということである。たとえば、「良い建築」というものを考えた時に、建築とはあくまで私ではなく、私の外部にあるものであり、そして「良い」とはあくまで建築が良いのであって私が良いのではない。だから世界は外部にあり、真理も外部にあった。
19世紀から始まる、ニーチェを発端とした反近代的哲学は、その視点を崩していった。ニーチェ、フロイト、ソシュール、構造主義、記号論・・・とは、結局のところ、真理とは外部ではなく、それを判断する私自身にあるのではないか、という近代とは対照的な視点にある。言ってしまえば当たり前のことだが、良い建築かどうかっていうのは、見る人によって全然違うわけだ。
こう述べると、近代の哲学者ってあまり的を得ていなかったんだね、と思われるかもしれないが、そう考える人は哲学的な思考を持っていない人である。近代という時代は、真理を一つである必要があったのである。そう仮定することによって、人間は世界を知ることができるという権利を持てたのだから。時代によって、物事の価値そのものが違うのである。
話を戻すと、反近代的な哲学者は、近代哲学に異を唱えたとはいえ、真理を探究するということは同じだった。ただ、構造主義がポスト構造主義へ移行していったように、そもそも、根本的に真理を追うことそのものが無意味なんじゃないか、という疑問が生じてきた。時としては、1980年代くらいであろう。日本がバブル経済に突っ走った時代で、もはや論理が消えていった時代である。資本主義とは、論理なきシステムなのであるから。
デリタはこの時代に現れた。そして彼は哲学の根本的な無意味性を暴いた。彼はいう。人が、何かを食べ、それをおいしいと思ったとしても、それが本当においしいかどうかは本人にもわからない。「おいしい」という刷り込まれた原則に従い、それ味覚を「おいしい」と置き換えているのかもしれない(たとえばおいしい肉だと思って食べても、それが珍獣だと後々わかると、吐きたくなるであろう)。だから、人間は、そもそも、自分が何を真理と置くかさえ、ままならない。というか、人間にはそうした相反する理性が共存していた、それが物事の決定をずらしたり、遅らせたりするのである。
近代の哲学が真理を外部に求めたなら、反近代の哲学は、それを逆手にとって内部に求めた(近代建築からポストモダンへの移行と似ている)。そして、反近代以後は「何かを求める」という行為自体を無意味とした。追及したところで、どこにも行きつかない。なにせ、僕ら人間は、そもそも自己の内部に矛盾する理性を抱え込んでしまっているのだから。
だからデリダは、プラトンとかの文章を用い、プラトンが、自らプラトン自身を裏切っていく様をみせる。つまり、プラトンが、プラトン自身で自分をずらしていくのである。これが脱構築である(と私は考える)。
だから、脱構築の建築など、本来的に矛盾しているのである。なにせ、そもそも、建築(というかあらゆる現象は)脱構築を起こしているのだから。近代建築も、古い社寺も、すべてデコンなのである。
長々とぐだぐだ書いて、最終的に質問に答えれば、まずデリダが建築界と結び付けられるのは、脱構築という運動が、建築界でひとり歩きしたからだと思う。モダニズムもポストモダンも、あくまで思想の総体だけど、脱構築に関しては、デリダが勝手に作った言葉なので。
そんで、脱構築の意義だけど、それはさっきも言ったように、哲学を終わらせたことにあると思う。強迫観念のように付きまとった「理性」という形而上学を、デリダは終わらせて見せた。これは、歴史的にはものすごく大きい。だけど、それはあくまで論理的に成功したという話であって、現実は、私たちの視点はいまだ、デカルトが提唱した近代的視点から逃れられないのである。・・・というか、おそらく近代というものは、これからもずっと続くと思う。
今の建築界では、哲学を語る人は少ない。それは、時代がそれを要請しないからだと私は思う。そういうフェーズに建築家や思想家を誘ってくれたという点においても、デリダはえらい。だけど、根本的に矛盾した理性を孕んでいると言われた時点で、僕らはもうお手上げ、判断停止を余儀なくされるわけだから、まぁそれ以上どうしようもないというのが正直なところでしょう。その「どうしようもない」を「発見」ととるか、それとも「後退」とみるか、それがデリダの評価の分かれ目かもしれない。
以上でたらめに書いてみた。たぶん、デリダの論理の1%も言い当てていないと思う。でも哲学ってのは、根本的にそんなものであるとも思うよ。
Kくんからのリクエストにこたえたいと思う。正直いうと、デリダに関してはほとんど知らない。というか、研究の対象としなかったので、できれば自分で勉強していただきたいというのが本音である。・・・が、それでも自分からみたデリダの意義について論じてみたいと思う。
デリダといえば、言わずと知れた脱構築運動(っていうのかな?)の旗手である。建築との絡みでいえば、デリダに一番近い位置にいたのはやはりピーターアイゼンマンじゃないかなと思う。日本だと、私としては藤井博巳大先生の作品がそれに近い感じがする。だけど、デリダの名前を知っている人は建築系の学生には少ないんじゃないかな?脱構築っていうと、なんかハチャメチャに壊れた感じの建築をイメージする人が多いが、これは根本的に間違っていると私は考えている。
まずデリダが発した脱構築とは何か。私なりにいえば「そもそも、私たちは自己の理性を背くように自己の論理をずらし、それが私たちの身体のなかに包含されている」ということじゃないかと思う。そしてそれは何を意味していたか、語弊をおそれずに言えば、近代哲学(広義には、哲学そのもの、そして論理、思考と人間の知の全般に及ぶが)を終わらせることにあったのではないかと思う。
近代の哲学がなしえたことは何か。近代哲学の父と呼ばれるルナ・デカルトという人は、世界の認知を「主観―客観」という二項対立に押し込めた。つまり、私がいて、その周囲の環境があるという、xyzの三次元空間をデカルトは想像した。これはいまだに我々の思考の根本のあるものである。誰だって自分がいて、その周囲に他人がいるという認識をもっている。
これが当たり前であり、必然であるとする人は、まずここから解体しなければならない。
主観―客観という構図は、近代以前には乏しかったとされる。なぜかといえば、世界の答えは神が知っていたからであり、物事の決定権を人間は持っていなかった。前にもブログに書いた気がするけど、近代になって科学技術が発達し、人間は「世界を知る」という権利を得た。世界は、人間主体となったのである。これはルネサンス以降の人文主義という。それが幾度となく否定され反復されてきたが、結局のところ、人間主体の物事の考え方は変わっていない。
さて、この近代の認識論において重要なのは、まず「私」という主体がいて、その外部に世界があり、そして真理があるということである。たとえば、「良い建築」というものを考えた時に、建築とはあくまで私ではなく、私の外部にあるものであり、そして「良い」とはあくまで建築が良いのであって私が良いのではない。だから世界は外部にあり、真理も外部にあった。
19世紀から始まる、ニーチェを発端とした反近代的哲学は、その視点を崩していった。ニーチェ、フロイト、ソシュール、構造主義、記号論・・・とは、結局のところ、真理とは外部ではなく、それを判断する私自身にあるのではないか、という近代とは対照的な視点にある。言ってしまえば当たり前のことだが、良い建築かどうかっていうのは、見る人によって全然違うわけだ。
こう述べると、近代の哲学者ってあまり的を得ていなかったんだね、と思われるかもしれないが、そう考える人は哲学的な思考を持っていない人である。近代という時代は、真理を一つである必要があったのである。そう仮定することによって、人間は世界を知ることができるという権利を持てたのだから。時代によって、物事の価値そのものが違うのである。
話を戻すと、反近代的な哲学者は、近代哲学に異を唱えたとはいえ、真理を探究するということは同じだった。ただ、構造主義がポスト構造主義へ移行していったように、そもそも、根本的に真理を追うことそのものが無意味なんじゃないか、という疑問が生じてきた。時としては、1980年代くらいであろう。日本がバブル経済に突っ走った時代で、もはや論理が消えていった時代である。資本主義とは、論理なきシステムなのであるから。
デリタはこの時代に現れた。そして彼は哲学の根本的な無意味性を暴いた。彼はいう。人が、何かを食べ、それをおいしいと思ったとしても、それが本当においしいかどうかは本人にもわからない。「おいしい」という刷り込まれた原則に従い、それ味覚を「おいしい」と置き換えているのかもしれない(たとえばおいしい肉だと思って食べても、それが珍獣だと後々わかると、吐きたくなるであろう)。だから、人間は、そもそも、自分が何を真理と置くかさえ、ままならない。というか、人間にはそうした相反する理性が共存していた、それが物事の決定をずらしたり、遅らせたりするのである。
近代の哲学が真理を外部に求めたなら、反近代の哲学は、それを逆手にとって内部に求めた(近代建築からポストモダンへの移行と似ている)。そして、反近代以後は「何かを求める」という行為自体を無意味とした。追及したところで、どこにも行きつかない。なにせ、僕ら人間は、そもそも自己の内部に矛盾する理性を抱え込んでしまっているのだから。
だからデリダは、プラトンとかの文章を用い、プラトンが、自らプラトン自身を裏切っていく様をみせる。つまり、プラトンが、プラトン自身で自分をずらしていくのである。これが脱構築である(と私は考える)。
だから、脱構築の建築など、本来的に矛盾しているのである。なにせ、そもそも、建築(というかあらゆる現象は)脱構築を起こしているのだから。近代建築も、古い社寺も、すべてデコンなのである。
長々とぐだぐだ書いて、最終的に質問に答えれば、まずデリダが建築界と結び付けられるのは、脱構築という運動が、建築界でひとり歩きしたからだと思う。モダニズムもポストモダンも、あくまで思想の総体だけど、脱構築に関しては、デリダが勝手に作った言葉なので。
そんで、脱構築の意義だけど、それはさっきも言ったように、哲学を終わらせたことにあると思う。強迫観念のように付きまとった「理性」という形而上学を、デリダは終わらせて見せた。これは、歴史的にはものすごく大きい。だけど、それはあくまで論理的に成功したという話であって、現実は、私たちの視点はいまだ、デカルトが提唱した近代的視点から逃れられないのである。・・・というか、おそらく近代というものは、これからもずっと続くと思う。
今の建築界では、哲学を語る人は少ない。それは、時代がそれを要請しないからだと私は思う。そういうフェーズに建築家や思想家を誘ってくれたという点においても、デリダはえらい。だけど、根本的に矛盾した理性を孕んでいると言われた時点で、僕らはもうお手上げ、判断停止を余儀なくされるわけだから、まぁそれ以上どうしようもないというのが正直なところでしょう。その「どうしようもない」を「発見」ととるか、それとも「後退」とみるか、それがデリダの評価の分かれ目かもしれない。
以上でたらめに書いてみた。たぶん、デリダの論理の1%も言い当てていないと思う。でも哲学ってのは、根本的にそんなものであるとも思うよ。





コメント
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Re: そもそも、我々は・・・
丁寧な執筆をどうもありがとう。
なんだか自分がわからなくなる考え方だね。意識の根本がゆらぐよ〜
アイゼンマンもなんだか難しくてよくわからないことやってるな〜って思いますがそれ以上に難しい。
私達は誰にでも理解出来るような利益のある建築をつくる環境にいるけど、哲学って全然ちがうよね。
以前哲学の教授に哲学の社会にもたらす利益とはなんですかって聞いたことを思い出したよ。その時は逆になぜ利益がでなければいけないのか、みたいな逆質問からいろいろいわれてよく理解できなかった。哲学っていったいなんなんだろうか。でもよくわからないけどきっと私も真相心理の中には自分の哲学をもっていて、知らず知らずのうちにそれにしたがって行動やデザインをしてるんだろうな〜
俺のデザイン哲学ってなんだろう。ロングライフ?非物質?そんなあまっちょろいことじゃなくてもっと本質的で上位にある概念なんだろうな。探してみます週末に。
( 2009年07月04日 19:19 [編集] )
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