空間という奇跡

2016年10月15日 21:15

金曜日夕方、会社を抜け街路を歩いていると、ふと、お寺の形式について考えだした。

以前、なぜお寺は平屋が良いのか、2階建てだと、形としておかしくなるのか考えた。その時は、特に明快な答えは浮かばず、「そういうものでよいのではないか」と考えていた。

かつての議題を、もう一度思い出してみると、そこにはかつてと異なるアプローチがあった。頭ではなく、身体で考えていた。

例えば、2階建ての上階に本堂があるとしよう。すると、何か身体が落ちつかない。これは茶道の床の間を拝見するときの感覚なのだが、自分より下に何かあるということは、ちょっと気持ちが悪い。というのは、床にある掛け軸や花を拝む時、自分が底辺にいないとおかしいのである。自らを控えめにすることで、日常の美を感じ取ることができるのだ。

逆に、2階の下階に本堂があるとすると、これはお寺としておかしい。上階がどうなっているかにもよるが、仏様の上に人がいることになってしまう。

つまり、人が仏と対峙するということは、下界(最も下の世界)にいる人間と、天(最も上の世界)にいる仏様を、建築空間をもって繋げるのである。納めるといった方が自然かもしれない。建築が、2つの世界を融合させるのだ。そのためには、空間というのは、独立して存在していることが望ましい。というか、それ以外のことを求める方がおこがましい。

ミースの建築は、20世紀のカテドラルである。どこかの批評家がそう言っていた。なるほど、では、モダニズム建築も同じ解釈ができようか。「彼ら」の建築は、空間があるだけで、誰かはそれを宙に浮かせ、誰かは水平に繋げ、誰かは幾何学を持ち込み、誰かは色彩を持ち込んだ。ただ、それだけのことかもしれない。
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