お茶と床と現象学

2015年11月02日 23:37

先日、御殿場を訪れ、久々にYくんと再会した。昼ごはんを頂いた後、空白の時間に彼が放った言葉は衝撃的だった。いや、実際には、それに衝撃を受けたのはしばらく後である。

「陶器を見るときに、現象学を感じないか?」

正確には、もっと違う言葉だったかもしれないが、私は戸惑ってしまった。これまで、そんなこと考えたことがなかった。いやいや、私は考えてきたはずなのだ。現象学は私の大学時代のテーマであったし、確かに、物を見ることは、現象学的な思考であるはずである。

しかし、私は茶碗や茶器、掛け軸や花を見るとき、そこに現象学的思考は全く存在していなかった。

「物を見る」ことは、そのまま茶道である。だが、茶道と現象学は、論理的には相似だが、どうもリンクしない。その答えを、私は御殿場を去った後、少しずつ理解した。

現象学は、不確かなものをエポケーし、とある真実へ辿り着こうとする、微分的な学問であると、私は認識している。しかし、後にハイデガーが否定したように(?)、そこには「認識している」という前提があった。つまり「それが不確かである」という判断は、人間の理性によって行われるわけである。

しかし、茶道は、ものを上からは見ない。常に謙虚に、その美しさを「拝見」する。そこには、判断は伴わない。あるのは、拝見する対象と、その間、だけである。

それは、民家に連れて行ってもらった時、床の前を歩いていた時の違和感にも通じる。常に、私は「その後」にある。

これは、私の理論ではない。私の身体と相談し、言葉として表現しようとしたら、こんな稚拙な論理になったというだけである。

しかし、何気なくふとした時に発する彼の言葉ほど、恐ろしいものはない。

でも、よいよ。私はきっと、成長している。

いやいや、でも。きっと成長している。

スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://porcorossolecorb.blog10.fc2.com/tb.php/1739-4ae9a7a0
    この記事へのトラックバック


    最新記事