背景Yくんへ。

2015年09月23日 21:15

背景Y君へ。御無沙汰・・・でもないような・・・。

香川県庁舎は、ちょうど10年ほど前に行きました。今書きながら思いだしたのですが、確か、県庁舎を見た夜、Yくんからメールを貰い、丹下健三の死去を知ったように思います。日本一周旅行をしている時でしたが、事前にYくんには話をしていなかったので、何とも微妙な面持ちになったことを記憶しています。当時の我々の距離感を思い出します(笑)。

実際に見た時は、あまり良い印象はなかった気がします。「日本風」とも思わなかったし、新庁舎よりはいいなとは思いましたが・・・。

RCで社寺建築を作るのは、なかなか難しいです。Yくんが言うように、RCで木造の模倣をするため、下手するとただの「偽物」です。また、真夏日でも、木造の社寺は涼やかですが、RCだと暑苦しく思えてしまうため、RCの社寺はもともと嫌悪していました。

吉田五十八設計の満願寺がよかったのは、「木造建築の美しさにはかなわない」という、謙虚さがあるように思えたからです。私は、社寺建築を見る際、「ふと手を合わせたくなる」ことが、その建築の評価だと思っています。その意味では、手を合わせたくなる気持ちにさせられました。

「日本建築とは何ぞや」とは、大学の頃、個人的にずいぶんと考えたつもりです。高松伸のかつての作品は、内部と外部を乖離させて考えていたと、何かの本で読んだことがありますが、あれはあれで「日本」のような気もしますし、正直良くわからないです。

最近、それが「日本的な建築」であるかどうかは、「風化」という概念を当てて考えるようにします。風化は「風と化す」と書きます。私は、「日本文化は風と共にある」という勝手な仮定のもと、風化という言葉を当ててみると、大抵の建築、物、言葉、映像、概念は、風化してなくなってしまいます。それでも残る・・・というか、むしろ生き生きと時間を刻むものが、日本的だと勝手に思っています。それはもちろん、時間が経過した後(未来)の話ですから、何も確証はありません。故に、そこには「Imagination」が必要なわけで、これは内藤廣さんと堀部さんの(個人的独断的な)合わせ技です(笑)。

話が反れますが、風化した後の建築を思い設計すると、これまでの建築「作品」を模倣することに、何の躊躇いもなくなります。なぜなら、「作品を作る」ことよりも、時間を生き延びることが重要だからです。茶道では、よく「写し」という言葉をききます。茶室も茶道具も、何の躊躇いもなく、写しと公言します。それは、オリジナルへの敬意であるため、複写(コピー)ではありません。茶道には、どんなものにでも敬意を払うという概念が、元々あるからだと思いますが、それは、風化し消えていく作法故の、延命療法にも思えます。本当に重要なものは、「物」ではないため、模倣されるということが、本質を損なうことにはならないのです。むしろ、本質が何か語り続ける為の、手法となっています。

設計したお寺を、施主プレゼンのためCG化しましたが、どうもつまらないと思っていましたが、最後に前景となる桜並木を入れたら、ぐっと絵が良くなりました。建築が謙虚になったためです。謙虚になれれば、きっと良いお寺になるような気はします。

でも、モダニズム以降の建築家は、どこか「建築は全てを表現できる」と考えがちな気がしており、それよりはむしろ、「できない」と言ってしまえた方が、気持ち良いようにも思えます。お寺は、仏様の上(の階)を人が歩くことは御法度ですし、本堂自体も、大地と接続されている法が安心します。だから、平屋としてしまって、それ以外の場合は「二番煎じ」と考えてもよいように思えているのです。(二番煎じであろうと、「本質」とは無縁かもしれませんが・・・)

長々と書きましたが、Yくんへの説明というよりは、個人的な理解の方が優先されていると思います(笑)。社寺設計も茶道も、身体的に理解していくしかないので、時々文章として吐き出すことは、とても有意義です。社寺設計を始め、社内ではこれまで以上に浮いておりますが、浮いていることが周囲に認識され始め、個人的には楽です(笑)。Yくんが学生の頃呟いていたことも、段々、身体的に理解できているようにも思えます。

長文、時間があれば読んでください。

近々、会えたら会いましょう。

では。
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コメント

  1. 静岡のY | URL | -

    Re:背景Yくんへ。

    香川県庁舎のポルコの反応が聞けて良かった。
    そして文章を読んでさらに色々教えてもらいたいことが増えました。
    けれどうまく書けそうにないので、今回はやめておきます。
    こういう話は直接の対話でなく、手紙のような形式で言葉に言葉を重ね続けると、「身体的な理解」からどんどんと遠ざかるような気がするのはなんでだろう。
    やはりこういうのは「身体的な理解」がある程度蓄積されてから「たまに」やりとりするくらいがちょうどいいのかな。
    そして身体を向き合わせて直接対話するほうがいいのかも知れないね。
    さらっと「身体的に理解する」と書いてあって、いいなぁ、と思いました。
    それでは。

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