スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

エッセンスの再現

2015年09月06日 21:10

京都に行った際、ふと、空白の時間に素敵な時間を充填すべく、とらやへ行こうと思うと、なぜか京都の見習いさんも行きたいと思っていたということで、訪れることに。

150906-2.jpg

150906-3.jpg

150906-4.jpg

150906-5.jpg

内藤廣の建築というものは、どうにもわかりづらい。要は、「はい、ここで写真撮ってください!」というようなポイントがないのである。写真と実際の建築も、ずいぶんと印象が異なる。だから、何というか、感動しながらも、言葉で表現しづらい。

でも、この建築は良かった。素直に良かった。それは、縁側だった。自然環境と人間の境界をコントロールするための建築的装置が、ここにはあった。それは、風のイエの理想としたものでもあった。

最近思うことは、これまで当たり前にあった環境を読み取り、現代で継承していくことほど、難しいことはないのではないかということ。モダニズムは、常に新しい概念を提唱した。それは、科学の進化と、ある一部の人のとてつもない才能によって開花したのかもしれない。安藤忠雄も、創造とは辛い仕事だと、どこかで発言していたと思う。ただ「新しい」ということは、「これまでの環境とは異なる」という免罪符にもなる。これまでの環境としてのエッセンスを、改めて「再現」できなくても、それは問題とはならない。これまでの環境を「刷新」することこそが「建築」としての役割だったからである。

内藤廣の建築は、その再現に挑んでおり、しかし必ずしも成功していない。いや、成功したとしたら、それはむしろ透明なものとなり、そもそも評価することすら不可能かもしれない。

これは社寺の設計をするなかで、周囲の設計者との差異を感じながら、改めて発見したことである。近代建築家(これは当然、現代の我々も包括してしまう)は、刷新することを前提とする。私は、そのことに、今あまりにも興味を抱いていないことを知った。

環境のなかに潜み、再現しようとするものを「エッセンス」と表現したが、これはルイスカーンの言葉だったか。いや、Yくんだったかもしれない。そんなことを考えていると、社内人事に盛り上がる飲み会では、どうしても彼らの言葉が遠くに聞こえてしまう。
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://porcorossolecorb.blog10.fc2.com/tb.php/1701-d16b4143
    この記事へのトラックバック


    最新記事


    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。