いつか、建築になることを願って

2015年08月23日 18:02

社寺案件の設計を始めると、様々な変化を感じる。

例えば、社寺建築を作る上では、一番重要なのは仏様や法事といった行事、作法であり、そのために似つかわしい意匠である。意匠なのだ。施主打合せも、社内打ち合わせも、意匠性の問題となる。これは私が想定していたことではあった。今の時代、空間の意匠性が生きるとすれば社寺だろう、と。

ただ、そうすると色々と問題はあり、畑違いの人(大体の建築関係者はそうだろうが)においては、「興味がないか、何を正としてよいかわからない」とし、あまり口を出さない人もいれば、「そもそも伝統的意匠は好きではない」ということで、モダンな構成にするよう話をされたりもする。「モダンな構成」というのは色々とあるだろうが、軽快な意匠と言うことであれば、鉄骨の構成となりやすい。鉄骨造というのは、行ってみれば、表皮をパネルで覆うわけで、そのパネルは、基本的な反復可能な人口建材なのである。

基本的には、そうした建築は好きではあるし、他の用途で設計する場合は、意図的にそういった線や面の構成で外観を形成したりするが、現在担当している社寺建築においては、それは避けたくなってくる。

数寄屋造り風の意匠では、線材で繊細な構成をすることはあるが、今回はそういった建築でないということもある。ただ、私は想像するのだ。鉄骨で頑張って跳ね出し、構造的な工夫をしてところで、では30年後、50年、100年後、その建築は残っているのかと。

未来がどうなっているかなど、私にはわからない。ただ、これまでの建築をみれば、それは、「建築家好み」の繊細な表現よりは、どっしりとした無骨な印象でも、時間とともに風合いを増し、手で触りたくなるような表層をまとった建築の方が、長い間人の手に触れられ、残っていくのではないかと・・・。

いつかの上司(それは、私が尊敬する人であったが・・・)は言った。結局、我々に残るのは竣工写真のみである、と。そのために、竣工写真をフォトショップで加工したり、「美しかったであろう私の建築」を残そうとする。逆にいえば、竣工後は不具合さえなければ、もっといえば、不具合があってもそれを施主が文句を言わなければ、後のことは関心なしと、考えたりもしそうである(それが身近にある建築であれば、そうではないだろうが・・・)。

考えてみれば、「近代建築家」とは矛盾だらけだ。世界で最も必要とされる建築を作ろうと志しながら、それは再生産される(或いはされた)運命にあり、市場の流れの中では、消えていくことを望まれる。

私は、この建築の設計をしながら、竣工時のことではなく、50年後の事を考えている。私が生きているかわからない、いつかのことを考えている。
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