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背景、みなさま

2015年02月21日 19:53

金曜日の見学会は、私にとって、ある意味、意味深かった。車内で、後ろの席から聴こえてくる会話は、私を辟易させるに十分だった。私は、イヤホンをして、あろうことか尾崎豊を聴いていた。それで、なんとか時間を耐えていた。いつも通りの展開である。勝手に夢想し、理想を抱き、実際は普通の人であることを知り、落胆する。そして問題は、落胆するのは、事が起きてから、ということである。

ただし、私は今回は、それでも待った。自分の感情をとりあえず抑え、信じることにした。

今日、初めてお茶を習いに行った。前から習ってみたいと思っていたが、休日で開催している場所がなかなか見つからず、ようやく見つけ赴いた。先生は、恰幅が良いが、とてもきりっとしており、お茶の所作をするときの綺麗さは、惚れ惚れするものがあった。私は終始、夢中になった。私が理想とする世界が、ここにあるように思えた。

そのなかでも、私にとって印象深い言葉があった。ひとつは、お茶というものは、武家の文化。つまり、男尊女卑なのだと先生は言った。また「あなたは綺麗な手をしているから、きっと格好よく所作を行えますよ」とも。考えてみると、私の体系は明治・大正時代の人に近く、小さな畳に拘束されて動く茶道には、ある意味向いているのかもしれない。

先生は「いつでも気軽に、今日教えたことを忘れた頃にいらっしゃい」と、少し笑みを見せながらおっしゃった。私は、とてもウキウキしながら、最寄駅まで歩いた。

何がうれしかったというと、私は、初めて集団に属したような、そんな感動を受けたからである。私は、自分の趣向と合う人と一緒にいることが、基本的に好きではない。集団というものは、ある方向性があるから成立する。故に、単一のベクトルを持ちがちである。私はそれが気持ち悪い。だから、集団から自由でいたいと願い、そのため、私は他の人よりも自分の時間を多く持つ代わりに、他人とのかかわりが少ない。そういう人生なのだから仕方がないと考えていた。

ただ、今回ちょっと触れてみただけの茶道というものは、「道」であり「ベクトル」ではない。方向性があるわけではなく、むしろ、何もない世界に向かって、無心になることのようにも思える。しかしそれは、他者とのかかわりのなかで初めて成り立つ。それが、私にとっては嬉しかった。

家に帰って、スポーツジムへ行くまで、フローリングにごろんと寝転がった。カーテン越しの空は、とてもさわやかだった。こんな空、初めてかもしれない。

みなさんは、こんな綺麗な空を、ずっと見ていたのでしょうか・・・

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