20世紀の産物を手に入れる

2015年02月07日 22:07

今日、とある車を購入した。BMW330ciという。といっても、納車は1カ月後である。

3300ccのエンジンを積んだため、リッター6~8キロしか走らない、まさに非エコな車である。しかし、私は現代のエコカーを購入する気にはならなかった。

私が車を検討することになった要因は、とある山林への交通手段だった。山と関わる仕事に着くためには、車が必要であるという現実を知った。そして、日本の社寺建築を見て歩くなかで、これまた車がないといけない場所があることも知った。

当初は、シトロエン2CVを検討した。思想的にも歴史的にも好きな車であり、試乗もした。とても良い印象だった。ただ、とある瞬間、私の脳のなかで変革が起きた。私はそのために、もっと近代的な車に乗ることを考え、奇しくも、検討した2CVは誰かの手に渡った。

それから私は、車を選ぶ条件を4シートのオープンカーであることに限定した。それは、走ることの気持ちよさと危うさ、そして、その祝祭性を誰かに提供する、という考えのもとである。

オープンカーは日本では少なく、そのため、4シートカブリオレを日本車で選択することは難しい。日本の気候には最適解とはいえず、また閉鎖された空間でしか確かな快適性を語れなくなった現代では、オープンカーは余分な遊びでしかないかもしれない。しかし私は、その条件の下、中古車店を歩いた。

薦められたのがこの車だった。13年落ちだが、ワンオーナーがセカンドカーとして所有していたため3万キロしか走っていない。BMW・・・?とは思ったが、全く知識のない私は、雑誌とネットを活用し必死に車の知識を得た。そして、翌週試乗し、その走りに魅了された。大地と密接に繋がっている感覚があった。

また一週間、店員を質問責めにした上、考えた。そして、私はこの空白の時間を思った。今週は仕事が緩く、時間がゆっくり流れたせいもあり、空白感に浸っていたのだ。今、多少の貯金があるなかで、そして、特に何も問題を起こさなければ、あるいは自分から逃れようと決意しなければ、平穏な生活がしばらくは続くであろう今の生活のなかで、他の誰かに、何かを提供するということ。そして、そのための準備が常に自分にあるということは、何かしらの原動力になるのではないかと思った。社寺建築を見るために、新幹線に乗ることは、経済的かつ環境にも優しいが、それで誰かを救えるわけではない。

そして、エコカーへの警戒心は、その背景には「エコカーだから環境によいので、どんどん購入してほしい」という、この日本社会の本音があるように思える点である。はっきり言えば、日本で車が一種類しか売られないということになった場合、例えばそれがプリウスとフェラーリだったら、環境に優しいのはきっとフェラーリである。なぜならば、プリウスだった場合、車購入を検討している人は、何も躊躇わずプリウスを買うであろう。そして、何も考えず排気ガスをまき散らかすであろう。しかし、フェラーリの場合、高額であるため購入できないということもあるが、その維持費のために、より車は使わなくなり、購入しなくもなる。車は特別な存在となり、複数の人が乗る時のために、より使われるであろう。

今日、購入を決めてから、また幌を開けてみた。オープンにした状態は、とても素晴らしい。それは、単に車の形状が美しいのではなく、20世紀の産物である機械が、それは、外気に接することを否定するために機械が、太陽のもとにさらされるという、その快楽である。それは、機械時代が永遠に続くとみられた幻想が、最初から終焉を想定されたその光景に、私は興奮した。

まぁ、何より、誰かを誘う時に「オープンカーだけど乗る?」と言えればよい。きっと、春か秋か、そして雨が降っていない気持ちがいい時なら、心地よく乗ってくれるのではないか。後は、雨風が入りやすく、故障がしやすく車を、膨大なメンテナンス費を払いながら、維持していればよいのだ。それだけさ。

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