年末年始に思ったこと

2015年01月04日 19:27

「機能と愛について」

京都駅を訪れ、原広司設計の空中浮遊物を見た時、それが生き残るためには、形態が機能に伴っているか、或いは、そこに愛がなければならないと感じた。機能と形態だなんて、如何にも近代機能主義の言葉のようだが、ものは使われることによって、その生命を維持することができる。風化し朽ちていくことが「正」であるならば、もはや議論は不要だが、そうでないならば、触れられ、語られる必要がある。機能主義の破綻は、近代合理主義的な「機能」であり、非合理的な機能性を捨象したことにあるのかもしれない。そういう意味では、機能とはやはり重要なものである。
しかし、その機能が破たんをきたし、或いは時代遅れであったとしても、そこに「愛」があれば、生き続けることが可能であろう。人間は機能性で出来ているわけではなく、あまりに非合理的な生き物である。それゆえ、そのあまりに人間的な愛を受け入れることができるものは、生き続けることが可能であると考える。

「友人」

友人がたくさんいるということ、これは色々な意味で素晴らしいことである。私は、これまでの人生で友人作りにエネルギーを注いでこなかった。中学生の頃は、なぜそのようなものが必要か意味がわからなかった。この歳になり、何を言っているのかと思われるかもしれないが、一つのものを得たいと思うなら、そのために多くのものを得ておくべきなのである。友人は偉大だ。

「巡礼の効用」

私は、何かひとつの理念の下、がむしゃらに永遠と同じことをすることが好きなのであるが、ある時期から、会社の上司に言われ、社寺巡礼をしている。社寺の設計がしたいのなら、まずは自分が好きな形式がわかるよう、多くのものを見ることと言われたからだ。当初は、半信半疑というか、ある程度みればわかるのではないかと思い始めて、なんだかんだ件数で言えば100件を超えた。個人的な行いであるため、ブログに残す以外外部への放出はしていないのだが、先日会社の後輩から「京都に行くなら、どのお寺が良いか?」と聞かれ、それなりに丁寧に教えてあげた。彼女がどう感じたかはわからないが、京都はそれなりに行ったので、自分なりに回答出来たこと自体がひとつの発見だった。何かひとつのものに執着心を持つことは、きっと重要なことである。そうであれば、この退屈でスリリングな冒険も、決して意味がないことはない。

「暖かい風景」

この歳になり、いやこの歳になったからかもしれないが、家族の暖かい風景に憧れることがある。私のこれまでの人生は、それほど人間的な暖かさを受けて生きて来たわけでもないと思うのだが、そうだからこそ、手が届かないからこそ、憧れがあるのだろうか。正月、実家でグダグダしながら、しかしこの母親が、私が今描くような暖かい風景を私に夢見させるのだろうと感じた。つまりそれは、かつて両親が、私にしてくれたことなのだろうと。そういう暖かい風景に憧れをもちながらも、実際に「そこ」に行けば、きっと私は退屈し辟易するのだろうと思うと、私は一生ひねくれ者の人生を歩んだ方が良いのではないかと思ったりして・・・

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