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建築に何が可能か

2014年12月23日 20:03

この問いは、そのまま原広司の著書である。古書で購入し、名古屋まで持ってきた。

今考えてみると、それはなんであろうか。

建築の定義を何に置くかに寄るだろうが、所謂「近代建築」を建築と定義するならば、それは社会主義的に人々の生活を救済する意味であったろうし、ある時は権力者の象徴となったであろう。もっと土着的な意味でいえば、雨風を防ぎ、農作物を保存し、人々が集う場所のためであったと言えるのかもしれない。

今、建築には何ができるのだろうか。

「近代建築」という意味で捉えるならば、発展途上国では意味をなすかもしれない。世界には、日々雨風をしのぐ場所すらない人だって、いくらでもいるだろうし、彼らの為に屋根をかけてあげることは、プリツカー賞を取る建築家の「作品」よりも、よっぽど意味があるように思えるし、感謝もされるだろう。

では、日本ではどうだろうか。

日本の住宅は、6、7軒に1軒が空き家と言われ、オフィスもおよそ10%が空室らしい。もちろん、建築は単純に機能性だけで出来ているわけではない。空っぽの建築があったって、それに意味がないかと言えば、そうとは言い切れないであろう。ただ、まっさらな気持ちで日本の建築群を見渡した時、建築の批評性や象徴性などを捨象したとき、本当に必要なもの、或いは、今後ずっと残っていくものなど、本当にちっぽけなものでしかないのではないだろうか。

この論証をするのは、至って簡単である。その考え方を、建築の存在理由を、この日本中の人に話すことができるか、ではないか。理解されるかどうかではなく、話すことができるかどうかである。形而上学的空間の神秘性について?ファサードの表徴性について?なるほど、建築的言語には「庶民」が関わりにくい領域があるし、私自身そこに魅せられた時期があった。現在でも、その哲学的な問いには、惹かれる自分がいるし、問い続ける必要はあるであろう。ただ、それは理解されるかどうかの話であって、話すことができるかどうか、ではない。我々は話続ける必要がある。

私はこの歳になり、人に話す事ができるかどうかということを考え始めた。誰でも話すことはできるだろう。どんな仕事にも意義はあるのだ。しかし、そこに力はあるだろうか。誰かを、いや、私よりも若い人々を魅了する力があるだろうか。私の場合はないであろう。なぜなら、私自身が今の仕事に疑問を持っているからである。私の言葉は、彼らには疑問符付きで届けられるであろう。それはきっと、彼らの目を輝かしてはくれないであろう。

私が、この日本において、建築的行為によって何かができるとすれば、それは林業だった。日本の森林は高齢化している。間伐し、循環させなければ、森はどんどん力を失っていく。日本にはまだ豊かな自然があるが、その多くは人の手に寄って育まれたものである。だから、人の手助けが必要なのだ。

建築は、生産行為であり、消費行為である。故に、戦後の日本を支える一大産業だった。そうだからこそ、林業と一体となった建設行為は、私の唯一の希望にみえた。社寺建築を志すのは、まだそこには「神聖さ」が残っており、市場経済とは別の「価値」があるからである。社寺は、最後に残されたフィールドなのだ。

今日、そのフィールドを少しだけ見させて頂くことができた。私の頭のなかでは、まだ整理が出来ていないが、今後私がどうなるのかまだ何も決めていないが、でも、今日御説明して頂いた方は、私に話してくれた。私がどこまで理解できたかわからないが、話をしてくれた。それは、私にとっては、とっても大きな出来事だった。

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