商品と物の価値

2014年10月13日 21:39

先日の飲み会で「お前は世間一般の常識をしらない」と、年上の人に怒られた。「年上の人」と書くのは、上司でも先輩でもないと思っているからである。私より建築の経験があり、知識がある、一回り程度年上の男性である。一般常識を知らないことは否定しないが、別に日々テレビで報じているようなマスコミネタを知らなくても、別にいいだろと思う。確かに、設計者は話すことが重要な仕事のひとつなので、世間一般が注目する話題は知っているに越したことはないかもしれないが、あくまでそれは設計者としての必要な素養のひとつであって、すべてではない。テレビを見ない生活をしていると、確かに情報が遅い。でも、本当に必要な情報がさほど多くないし、私はもっと別の場所から情報を得たいと考えている。

そのためか、スポーツジムでランニングマシーン備え付けのテレビを見ていると、タレント達が急に老けこんでいることに驚いたりする。日頃、テレビで映像を見ていないと、記憶の映像は補正されるように思われる。私にとって、そのタレントはもっとも私に影響があった時の映像に補正されるように思えるのだ。普段継続的に見ないからこそ、見えてくるものもある。

それにしても、テレビの世界は移り変わりは速い。一年経ったら、四角い映像の世界は、一変しているのだろう。考えてみればそれは当然で、彼らは「商品」なのである。商品とは、ずっと永続的に売れるものもあるが、大抵のものは、手を変え品を変え、売れなくなったら廃棄し、また新しい製品を生みだすのである。市場経済とはそういうものであろう。

ネットの記事で、AKB48の卒業生の凋落ぶりがひどいなど書かれていたが、その事実の正否はともかくとして、理屈の上では、それは当り前ではないかと思ったりする。彼女らは商品であり、ましてや、AKB48は「誰でも会えるアイドル(だったか?)」を標榜するのであるならば、個のタレントとしての力など、そもそもないのではないか。「普通であること」を売りにするのであれば、その意外性の枠を出てしまえば、商品の効力はなくなってしまう。

私の部屋のなかには、ゴロゴロと色々な物が置かれているのであるが、即物的で大量生産品の物は、やはり飽きやすい。しかし、ガラスケースに入れると、とてもそれらしく見えてくる。それはなぜかと考えていたが、要は、ガラスケースに陳列されることで、商品は「過去の物」としての歴史性を表明するからかもしれない。昨日訪れた飛鳥寺の自動販売機は、10年以上(もしかしたら20年程)放置されているように思え、陳列された缶のパッケージは古ぼけて薄くなっていた。地面に投げ捨ててあればただのゴミであるが、これが美術館のガラスケースに入っていれば、1990年代を代表するパッケージデザインと捉えることもできる。

物の価値は、ほぼ相対的なものである。ただ、そこに歴史があり、想像性があり、素材と佇まいがあるならば、永遠に価値を持つようなそんな期待感を持つことができる。少なくとも私の場合は、そうなのである。

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