二年前の覚書としての文

2014年10月05日 20:41

『太陽と鉄』 著:三島由紀夫 を読む。

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相変わらず、熱狂的ではないにしろ、未だに三島文学を読んでいる。いつか、会社の飲み会の時に、三島由紀夫についてちょっと話したことがあったが、その時の印象は皆よく覚えているらしい。「三島由紀夫」という言葉だけで、私の年代の人は、何か「やばい」印象を受けるらしい。

この本は、昭和43年に書き下ろされている。つまり、彼の晩年の書であり、彼の肉体への賛歌と自決への助走が描かれている。一般的にはそのように解釈されるのであるが、何というか、私は三島由紀夫に対する、滑稽な部分を感じながら読んでいた。

三島由紀夫がボディビルを始めたのは30歳の時なので、既に10年以上経っているわけであるが、彼は自分の肉体が満足するところまで完成し、やっとそれを美しい言葉で語ることができたため、文章化したように思えるのである。つまり、小説家としての思想が先行するのではなく、野球中継で、プレイの結果を見て解説者が言葉を発するように、自分の履歴と、今後の(そう長くはない)行く末を、結果的に論じているような、そんな印象を受けた。

ただ、私の三島由紀夫に対する興味は、実はその部分である。彼はそれを嫌というほど知っていたし、恐れていたのではないかと思う。その二重にも三重にも折り重なった「作り話」が、しばし文学のなかで揺れ、その向こうに見えるちっぽけな人間像に、とても惹かれるのである。例えば、彼はこう書いている。

私にとって、美はいつも後退りする。かつて在った、あるいはかつて在るべきであった姿しか、私にとっては重要ではない。

美に陶酔し、自分自身を美的に仕立て上げ、しかしそれが張りぼてでしかないことを自虐的に嘲笑し、それそのものも彼のナルシシズムに包含するしかないといったような、人間くさい部分に、惹かれるのである。

しかし、金閣寺以降の文章については、正直エッセイの方が面白いように思える。金閣寺以降は、何というか、文体が散漫で、「わざわざそのように麗句的に書かなくてもいいのでは・・・」と思えてしまうことがある。もちろん、彼の小説は10作品も読んでいないので、批評する権利もないのかもしれないが、小説の世界よりは、現実の彼の行動の方が、どちらかというと注意を引く。金閣寺を書いている最中、彼はこれ以上に美しいものを描けなくなってしまい、それで現実世界に美を模索したようにも思える。そうすると、現実が先行し、仮想世界はそれに付随することになってしまう。

どちらにしても、一度は読んでおいて損はない作品ではあるが・・・
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