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お寺についての世俗的な本

2014年09月28日 21:10

『百寺巡礼』 著:五木寛之 を10巻読了する。

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久々に、爽快な読書であった。文章を読むこと、理解すること、それがそのまま建築家としての血肉となる。大学の頃、建築書を読んでいた頃の感覚と言うか、とても良い時間だった。

発端は、ブックオフで見つけた『1巻 奈良編』だった。ふと手に取り、何となく購入し、喫茶店で読んでみたら、これが面白かった。五木寛之が100か所のお寺を歩き、その道中と寺の歴史そのものを記しているのだが、彼が追い求めている「日本とはなにか?」「日本人とはなにか?」という根底的な問いが、背景にある。

五木寛之の文章を初めて読んだが、とても読みやすかった。驚くほどすんなり読め、10巻で2500ページ程度であろうか、あっという間であった。「日本論」と言う意味では、私は司馬遼太郎の本を学生の頃少し読んでいたが、それとはちょっと異なる視点がある。どちらかと言えば、司馬遼太郎は近代に着目し、そこを視点に日本を描いていたように思えるが、五木寛之は仏教である。司馬遼太郎が「生」であれば、五木寛之は「死」を描いているのかもしれない。

この本を読み、色々と考えることもあったが、今思い返し、とりあえず感想を残しておこうと思う。

ひとつには、まずお寺というものが、とても一般大衆に開かれた世俗的なものであることを語ってくれたことに、私としてはとてもありがたい気持ちだった。設計者として「社寺」というものは、完全に特殊な世界なのであるが、私はかねがね、公共的な建築において、むしろ社寺こそが一般的なのであり、モダニズム建築こそが現代においては特殊解ではないかと考えていた。一般的な建築家の発想とは、おそらく逆であろう。しかし、建築家ではない五木寛之は、私の気持ちを大きく代弁してくれたようで、とても晴々した気持ちになった。

また、この本を通し、繰り返し繰り返し語れてきたことは、「他力本願」と「神仏習合」についてである。これは読んでみると、ちょっと異なる意味で用いられていることが分かる。他力本願とは、一般的にはネガティブな意味で捉えられるが、五木氏は、それはポジティブな意味で述べている。他力の「他」とは、いわば自分以外の全てである。自分の意志で物事を遂行するという近代的な主体性ではなく、自分以外の環境そのものに自らを開放し、生を歩むということ。どことなくYくんが以前そんなことを言っていたようにも思うが、これは私の「風のイエ」の設計思想と同様である。他力を受け入れる為の機構そのものが、風のイエのテーマである。また、神仏習合についても、解釈としては近い。これは、いわば前近代的な日本の宗教観ではなく、もっと多様なもので、廃仏毀釈が起きた時も、仏と神は、平等に、様々な形式をとりながら、大地の上で生きていたということである。五木氏は、これは元々日本人の根底にあるもので、多様なものを受け入れ、共生させるということが、これからの国際社会でも求められるのではないかということを記していた。平等というよりも。ごちゃ混ぜに、なんとなく、である。

冒頭で、五木氏は人の人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に分類するインドの思想を挙げているが、林住期か遊行期に近い五木氏の話を、家住期真っ盛りの私が興味を持って読むというのも、ちょっとおかしな話なのかもしれない。きっと同期なんかと話しても、「なんでそんな老けこんでる?」と言われそうである。まぁそんなことはどうでもよいことであるが、何となく自分自身の立ち位置が少しわかったような気もする。

もちろん、私はこの百寺を、そしてそれ以上を巡礼しようと考えている。私の建築家としての野心が騒いでいる。
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