『金閣寺』を読む

2014年05月14日 22:20

三島由紀夫の名著『金閣寺』を読む。

社寺の学習の休息として、しかし、社寺建築にまつわる書として、名古屋まで持ってきたこの本を読んだ。大学4年以来、7年ぶりだろうか。

当時は、卒業論文を書いており、この世界の成り立ちに強い関心があった。その頃は、ハイデガーの存在論に酔っていた頃だ。『金閣寺』を読んだのは、Yくんのささやきがあったことは記憶しているが、しかし、当時の私は、その場所に導かれたのではないかと思うほど、当時の私とコミットした。

改めて読んでみると、ずいぶんと印象が異なった。これほど、アフォリズム的な文体とは思っておらず、どこか「日本の文学」というには、散漫さすら感じた。しかし、その飽くなきニヒリズムは、美しくも私を深い海へと誘い、多くの美しい風景を見せながら、終末へと進めた。

あの頃、この本から読みとったのは、まさしく「存在論的存在としての生」ということに尽きる。世界が相対化され、少年の前に現れた金閣寺は、それは誰のものでもなく、彼の為だけに対峙し、融和を許したのだと。そして、あまりに私の内部にある闇を証言した三島の記述は「なぜ彼は私のことを知っているのか」と恐怖を抱いてしまうほど、妖艶な柔らかさがあった。

自分の頭の整理のために、この記述を、私が感じた感想を整理する。

どもりであるため、世界と隔離された少年は、己が己であるためには「隔離されている」ということが、逆説的に唯一絶対的に必要なものであった。一般的には、世界との距離を感じた時、我々はその距離感を補正しようと試みる。しかし彼は、その試みを端から放棄している。なぜなら「言語」というものは、世界との最も有効な接続手段であり、その方法論は、彼の生きる上での選択肢にそもそもなかったからである。人は、自分を否定することができない。そうであれば、世界に認められないことそのものが、彼の存在証明となる。

金閣寺は、世俗的に美しい(とされた)対象であった。金閣寺が美しいのは、その内在的な美しさにではなく、世間がそれを「美しい」と呼ぶからである。彼が実在する金閣寺という建築物に出会うまでは、それは美しくありえた。なぜなら、イメージとして存在する時点では、世間から隔離することができる。世俗世界で孤独であれば、頭のなかの幻想は、なお強固なものになるだろう。

実際に金閣寺を見、幻滅した彼は、ふつふつとその感情を我がものにし、高揚へと昇華させるに違いない。なぜなら、彼は「世間」とは異なるということ、つまり、世界と絶対的に隔離されていることを、己が己としての存在意義を確信するからである。しかし、その確信は永遠ではない。なぜなら、彼は特別な人間ではないからである。どもりは、彼が彼自身であることの定義であるが、誰にも「どもり」はある。ひとりの個人が、世界と接続するための障害となるものは、多かれ少なかれ、誰にだって身体の奥底にあるのだ。

当然のことながら、その時点で、彼は世間との融和を認めることができない。世界との断絶と、それに対する底抜けの劣等感。しかし、それを読みとられまいと虚勢を張りながらも、それすら悟られたくないという虚栄心。圧倒的多層のニヒリズム。であれば、彼はひたすら、世界との断絶へ歩を進めるしかない。そこには何が必要か。それは「時間」である。

世間が「美しい」と評する金閣寺には、時間というものが介在されていない。いや、存在する。しかしそれは、観念的な時間である。古から聳えるという、あくまで観念の時間でしかない。金閣寺は「現在」を生きていないのである。

少年は、金閣寺に時間を与える。それは何の時間か。それは生きているという証拠、つまり、死への時間である。それはいずれ消滅されるということ。そのことこそが、彼にとって金閣寺が生きているということであり、世界との断絶、つまり、彼そのものが生きるということである。

金閣寺を焼失する様を見ながら、彼は生きることを決める。その「生」は、多義的である。絶対的な美とされる対象を殺すことで、彼は永遠と生きることができるとも考えられ、また、もはや生きてしまった彼は、その後の人生について何も洞察する必要がなく、生きながらえることができるともとれる。


頭の整理のために、思うがまま書いてみると、当然のごとく、その少年が三島由紀夫そのものであることを気付く。20歳の青年は、終戦時の三島である。戦争で死ぬことができなかった彼は、そこから25年の「余生」を生き永らえ、生を終える。また、この小説が書かれたのは、彼が31歳の時であり、その後、彼はボディービルをはじめとする「行動」に出る。その行動は、三島文学にも多くの示唆を与えたのだろうが、冷めた視点で述べれば、結局は、その終末への「肉付け」でしかない。

ただ、この書を私は否定的には捉えない。少年は、行動を諦めぬよう、事前に退路を断っていた。しかしそれさえなければ、金閣寺は生きることがなかったかもしれないが、幻影でしかなかったとしても、美しくありえたからである。心象風景として美しいのであれば、それは行動を起こすための活力になる。

しかし私は、その文学的な力などではなく、もっと庶民的な、それこそ世俗的な心の変容を、この本を読みながら知った。この、今私が夢見る場所があれば、それが幻影だとしても、ニヒリズムは消滅する。世界を埋めそうな程の大雪が、翌朝には溶け、ただ水が流れた痕跡だけを残すかのように、瓦解するのである。

その場所を信じながら、逆説的に、私は金閣寺にも憧憬をよせている。それは、ふと風が吹けば、消えてしまうような、この世のものとは思えない程の、絶対的な美しさをもって・・・
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