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建築の原初的な本

2013年12月21日 22:05

内藤廣著『構造デザイン講義』を読む。

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既に『環境デザイン講義』は読んでおり、一応一連の著作ということになるが、趣は全く異なるように思えた。考えると、構造は建築であり、設備は建築とは分離されて考えられる節がある。設備機器ということになれば、尚更意匠設計者は目立たないよう、可能であるならば意匠的に見えないよう努める。構造は可視化しやすいものであり、意匠形態の一部になるため、構造は建築意匠に近いと考えられる。

私自身意匠設計の仕事をしているから、『環境デザイン講義』は(私が設備に疎いということもあり)斬新な話しに思えたが、『構造デザイン講義』は、昔から変わらない当たり前の事象を、当たり前に話しているように思えた。内藤氏が述べる言い方では、現在の建築界の空洞化を、まさに埋めるような、そんな作業に思えた。

結構耳が痛い話でもある。私は、内藤氏が述べるエンジニアの域には到底達していないし、努力を怠っていると言わざるを得ない。業務の忙しさもあるが、構造は構造設計者の解析に任せ、彼らの提示する数値ありきで物事を考えるようになっていた。最も、新築の設計はほぼ初めてに近かったため、しょうがないとも言えるが・・・

構造のそもそもの性格付けについては、とても面白い話だった。S造かRC造かの選択は、コスト・工期、振動・遮音性等によるもので普段判断している。段々職人が減っていく現状、S造か何らかの乾式工法が優勢となると言われており、建物の要求される諸条件から構造を選択することはあっても、構造そのものの声を聞くことを、私は怠けている。

以前他の意匠設計者と打ち合わせをした際、「このような形態を作りたいが、構造的に可能か?」と構造設計者に質疑したことがあるが、私は違和感を覚えた。私は、構造と空間を分離することは、何となく美しくないと思えたからである。意匠と構造にヒエラルキーが存在する時点で、この建築は上手くいかないように思えた。

この本を読んで、ある意味内藤氏の恐ろしさを知った。それは、彼の現代建築のヒーロー達に対する批判の眼差しである。ざっくり言えば、私はザハは好きではないが、ゲーリーは結構好きである。何故と言われても分からないが、好みとしてそうなのである。ただし、彼らの出現を否定的には思わない。ある意味、時代の必然性があるように思えるからである。

内藤氏の批判的な考察は、建築界が色めき立っている中でも、ずっと変わらず、水面下で(?)あったのであろう。そう思うと、結構すごいことのように思う。

今日、目黒のインテリアショップでテーブルを買った。散々歩き、見、迷ったなかで、1960年代のチーク材でできた北欧のテーブルとした。購入した要因は色々あるが、店員さんとの会話だったかもしれない。私は、このテーブルの(成り立ちという意味での)「構造」について質問した。このテーブルは、天板は無垢材ではなく、表面に薄い化粧用の材を用いていると言った。だからといって、木の質感が損なわれるわけではないが、もし無垢材が良いのであれば、きっと他の店を覗いた方がよいと勧めてくれた。

実際には、この年代の北欧家具は完全な無垢材はないようで、表面に化粧の木材を用いているのだが、私はその背景を知ることができ、そのような成り立ちであることの理由を聞けたことがよかった。無垢の材であることが本物であり、製材されたものが偽りなのではない。そこに、物としての存在意義があるかどうかが重要なのである。今日出会ったテーブルと、内藤氏の話は見事にリンクしているように思えた。

一番楽しかったのは、やはり木造の講義である。木は多矛盾性であるということ。私的には、ざわざわしているということ。その多様性を許容することは、一生をかけるに値する仕事のように思えた。

どんなものにも、そうであることの意義がある。いい本を読んだ。

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