整理整頓されながら、ドロドロした本

2015年09月30日 21:57

[整理整頓されながら、ドロドロした本]の続きを読む
スポンサーサイト

吉田五十八の言葉

2015年09月29日 22:05

「寺院の静けさ」

西欧の中世紀の教会には、必ずといっていいくらい、僧院が中庭にむかって建てられている。そしてアーチを戴いた列柱が中庭をとりまき、中庭の床には大理石のモザイクが敷きつめられ、中央には泉があふれる水盤がおかれて、さながら宝石箱のなかにいるような、豪華な静けさを感じさせる。ときには、その静寂さを破るように、僧侶のあるく、ゆるやかな靴音が、中庭にこだまして聞えてくる。
こういった静けさは、日本の寺院には求められない別な静寂さであって、日本の静けさより、もっと冷たくもっと厳しいものがあるようである。この西欧の冷徹なる静寂さを、日本の寺院にも表現できないものかと、このたびの満願寺にこれを計画してみたが、日本の寺院では、あらゆる条件からこれを不可能にした。
そのうえ西欧の寺院は、石造にしても、煉瓦造にしてもその材質そのものからくる美しさと、その雰囲気が表現されるが、近来の日本の寺院は、木造の感覚をコンクリートに置きかえて表現しようとする一種の疑似建築である以上、木造でつくられた、昔の寺院のような、しっとりとした、何ともいえない、幽玄な静けさというものは、望むべくもない。がしかし、この満願時が竣工してみると、本堂、庫裡、門、塀にかこまれた、この大きな空間に、在来の日本の寺院にない、さりとて前にいった西欧の僧院の感じでもない、何か別のある特殊の雰囲気が、にじみ出たような気がする。それは、いく分なりと西欧の静寂さを基盤に考えて、できうる限りそれに近づけようと努力したためかもしれない。
この満願寺も近き将来には、西側に講堂を建て、東側の庫裡と対比させて、本堂を中心としたシンメトリカルな寺院にしたいという計画があるので、それが実現されれば、いまよりさらに、いい環境と、静寂さが、この寺院を包んでくれることと思う。

(『新建築1970年4月号』より抜粋)

万年筆

2015年09月29日 21:24

150929.jpg

207_下鴨神社(名月管弦祭)

2015年09月28日 23:01

社寺探訪を、正式にカウントするならば、下鴨神社来訪は複数回ある。しかし、今宵は「名月管弦祭」。それは、神事と祭りであり、イベントである。寺は、そもそもイベント、現象の場である。物としての強靭さというよりは、現象としての移り変わりにあるように思える。仲秋の名月は、まぶしいほど光り輝き、尺八・管弦・箏・琵琶・舞楽のイベントは、過去の複製ではなく、現代の月と呼応していた。

150928-2.jpg

206_大徳寺興臨院(本坊)

2015年09月28日 23:00

特別公開第二弾。本坊。これは別の意味で圧巻だった。文化財としての建築。それが、バクやら蜃やらでコテコテワンダーランドであり、かつてのディズニーランドのような唐門に始まり、悠久の龍が泳ぐ法堂。しかし私が震えたのは、方丈内の吹きさらしの空間。「広い廊下」とお寺の方は表現されていたが、確かに「名もなき空間」であった。それはかつて、篠原一男が目指した空間そのもののように思えた。

205_大徳寺興臨院(京都市北区)

2015年09月28日 22:59

京都府京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭。
(wikipediaより)

特別公開ということを聞きつけた見習いさんに連れられ、散策。塔頭であるが、庭と空間を巡る冒険であり、それは散策のようであった。しかし、庭に面した構成は、本当に見事なもので、空間はモダンそのものだった。それは小さい、とても小さい建築の集積であるが、本当に、小さな小さな宇宙を照らし出していた。感動的だった。

204_神泉苑(京都市中京区)

2015年09月28日 22:58

京都市中京区にある東寺真言宗の寺院。本尊は聖観音・不動明王・弘法大師。二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。境内に「大歳神:歳徳神(さいとくじん)」を祀るが毎年大晦日の晩に恵方に祠の向きを変える点が他の神社仏閣と異なる(日本国内で毎年向きを変える「大歳神」は唯一ここだけに見られる祀り方であると伝えられる)。
(wikipediaより)

京都のお寺も、そこそこ見たつもりであったが、こんなスポットがあるとは・・・。しかし、気がつかないのも仕方がない。これは、あたかも夜の宴のために拵えられた庭園の如く、仲秋の名月を見るがための空白のようであった。お茶を頂きながら、箏奏者による「糸(中島みゆき)」の演奏は、染みるものがあった。舟の浮遊感は、当時の貴族にとっても、きっと御満悦だったのであろう。

150928-1.jpg

風景-52

2015年09月23日 21:53

150923-1.jpg

モリコロパーク(愛知万博跡地)で見つけた風景。スラブが抜けたシリンダーの下に、タイルが段差を付けて貼られている。どこかにオーバーフロー管があるのだろうか。ちょっと好きな風景。

150923-2.jpg

京都駅で良く利用するレストラン。夕日に沈む京都と列車の音を聞きながら過ごす時間は、とても心地よかった。

150923-3.jpg

寮のある最寄駅。何の変哲もない田舎駅なのだが、床(というかニッチ)があり、生け花が飾られている。先日、女性が何かしていると思ったら、花を生けていた。最近、花びいきな私としては、とても良いことに思える。

150923-4.jpg

名古屋で見つけた建物。診療所と住居がセットになったような、高級住宅。構成、色彩、装飾が明快で、「古いデザイン」と言われればそれまでだが、時代を映しているようで、個人的には嫌いではない。

150923-5.jpg

テナントが抜けた高架下。逆に、ガラスとサッシの構成が明快。良く言えばリートフェルト。

150923-6.jpg

かつて建築誌で舐めるように見た建築群。ガウディの建築が世界遺産化が進む中、コルビュジエはいつまでも世間から抵抗される建築家であってほしいと思ったり・・・

150923-7.jpg

老人ホームだろうか。設備置き場兼ベランダが鉄骨で作られており、ちょっと良かった。もっとも簡易的にできる風のイエ的構成。

150923-8.jpg

これは高級住宅か。磯崎新っぽい。

150923-9.jpg

雑司ヶ谷で見つけた、TOKYO APARTMENT。「作品」ではないという点で、某建築家さんの作品より、優れているのでは・・・

150923-10.jpg

社寺巡りのなか、久々に立ち寄った東京カテドラル。やはり、ぞっとするような空間の高揚感がある。この建築を体験しながら私は、設計者がクリスチャンの洗礼を受けたことを思いだした。

150923-11.jpg

その後の食事。これまで食べたラーメンのなかでもなかなかうまかった。これまで博多ラーメンが好きだったが、魚介豚骨の方が口に合うのかも・・・

背景Yくんへ。

2015年09月23日 21:15

背景Y君へ。御無沙汰・・・でもないような・・・。

香川県庁舎は、ちょうど10年ほど前に行きました。今書きながら思いだしたのですが、確か、県庁舎を見た夜、Yくんからメールを貰い、丹下健三の死去を知ったように思います。日本一周旅行をしている時でしたが、事前にYくんには話をしていなかったので、何とも微妙な面持ちになったことを記憶しています。当時の我々の距離感を思い出します(笑)。

実際に見た時は、あまり良い印象はなかった気がします。「日本風」とも思わなかったし、新庁舎よりはいいなとは思いましたが・・・。

RCで社寺建築を作るのは、なかなか難しいです。Yくんが言うように、RCで木造の模倣をするため、下手するとただの「偽物」です。また、真夏日でも、木造の社寺は涼やかですが、RCだと暑苦しく思えてしまうため、RCの社寺はもともと嫌悪していました。

吉田五十八設計の満願寺がよかったのは、「木造建築の美しさにはかなわない」という、謙虚さがあるように思えたからです。私は、社寺建築を見る際、「ふと手を合わせたくなる」ことが、その建築の評価だと思っています。その意味では、手を合わせたくなる気持ちにさせられました。

「日本建築とは何ぞや」とは、大学の頃、個人的にずいぶんと考えたつもりです。高松伸のかつての作品は、内部と外部を乖離させて考えていたと、何かの本で読んだことがありますが、あれはあれで「日本」のような気もしますし、正直良くわからないです。

最近、それが「日本的な建築」であるかどうかは、「風化」という概念を当てて考えるようにします。風化は「風と化す」と書きます。私は、「日本文化は風と共にある」という勝手な仮定のもと、風化という言葉を当ててみると、大抵の建築、物、言葉、映像、概念は、風化してなくなってしまいます。それでも残る・・・というか、むしろ生き生きと時間を刻むものが、日本的だと勝手に思っています。それはもちろん、時間が経過した後(未来)の話ですから、何も確証はありません。故に、そこには「Imagination」が必要なわけで、これは内藤廣さんと堀部さんの(個人的独断的な)合わせ技です(笑)。

話が反れますが、風化した後の建築を思い設計すると、これまでの建築「作品」を模倣することに、何の躊躇いもなくなります。なぜなら、「作品を作る」ことよりも、時間を生き延びることが重要だからです。茶道では、よく「写し」という言葉をききます。茶室も茶道具も、何の躊躇いもなく、写しと公言します。それは、オリジナルへの敬意であるため、複写(コピー)ではありません。茶道には、どんなものにでも敬意を払うという概念が、元々あるからだと思いますが、それは、風化し消えていく作法故の、延命療法にも思えます。本当に重要なものは、「物」ではないため、模倣されるということが、本質を損なうことにはならないのです。むしろ、本質が何か語り続ける為の、手法となっています。

設計したお寺を、施主プレゼンのためCG化しましたが、どうもつまらないと思っていましたが、最後に前景となる桜並木を入れたら、ぐっと絵が良くなりました。建築が謙虚になったためです。謙虚になれれば、きっと良いお寺になるような気はします。

でも、モダニズム以降の建築家は、どこか「建築は全てを表現できる」と考えがちな気がしており、それよりはむしろ、「できない」と言ってしまえた方が、気持ち良いようにも思えます。お寺は、仏様の上(の階)を人が歩くことは御法度ですし、本堂自体も、大地と接続されている法が安心します。だから、平屋としてしまって、それ以外の場合は「二番煎じ」と考えてもよいように思えているのです。(二番煎じであろうと、「本質」とは無縁かもしれませんが・・・)

長々と書きましたが、Yくんへの説明というよりは、個人的な理解の方が優先されていると思います(笑)。社寺設計も茶道も、身体的に理解していくしかないので、時々文章として吐き出すことは、とても有意義です。社寺設計を始め、社内ではこれまで以上に浮いておりますが、浮いていることが周囲に認識され始め、個人的には楽です(笑)。Yくんが学生の頃呟いていたことも、段々、身体的に理解できているようにも思えます。

長文、時間があれば読んでください。

近々、会えたら会いましょう。

では。

203_満願寺(東京都世田谷区)

2015年09月22日 22:18

西蔵院と同じく、真言宗智山派のお寺。吉田五十八設計。RC寺院であれば、これは最高傑作のひとつかもしれない。
門を入ると正面に本堂があり、左右に回廊と小さなお堂(?)が並ぶ。飛鳥時代の伽藍配置のようにも思えるが、西洋風とも感じられる。西蔵院と同じく、RCとしての意匠が絶妙で・・・というか、西蔵院が、満願寺を模したように感じる。事後的に知ったことだが、同じ真言宗智山派だし・・・
ただし、西蔵院がむくり屋根の優しい印象であるならば、こちらは照り屋根の、浮遊感のある颯爽とした感じ。よりモダンさが増している。西蔵院がライトなら、満願寺はパラーディオのような感じ。
実は、以前訪れた事があったのだが、記憶が薄かった。全体の広場の構成には興味があったが、建物群はさして興味がなかった。それはある意味、大建築家吉田五十八でありながら、自然に溶け込んだ美しい建築が故に、そう思わせたのかもしれない。

150922-3.jpg

150922-4.jpg


最新記事