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春風

2015年03月22日 19:43

今週はコンペに追われた。といっても、他案件の監理定例にも時間が割かれ、久々の深夜残業もあった。

そのしわ寄せで、週末は睡魔に襲われた。結局のところ、私が働ける時間には限界がある。

土曜日は茶道の稽古。日曜日はスポーツジム。車の納車日であったが、保険がまだ入れなかったため、来週以降とした。買っても、あまり乗らなそうな気もしつつ・・・

メダカは、群れになって泳ぐ。餌も旺盛に食べる。よくよく見ると、一匹のメスメダカのお腹には、卵がくっついていた。

夜風が気持ち良い。

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群れないオトコですが・・・

2015年03月15日 19:50

喫茶店で雑誌を読んでいたら、こんな文章が目に入った。

「群れないことは孤立を意味しない」

群れるとは
他人と同じであることに幸福を覚えることだ。
誰かの評価に充足感を求めることだ。
黙して語らないことだ。
でも、それがマジョリティというものだ。
“正しさ”や“時の基準”となるものだ。

群れないオトコは
他人と同じであることが時に不安になる。
誰にも理解されずとも、自身の尺度で動いている。
黙っていられずに一歩前に踏み出し誤解されることもままある。
当然マイノリティであるがゆえに
群れというマジョリティの“正しさ”から除外され、
出る杭、とも 変わった人、とも わかっていない、とか
目立ちあがり屋などと揶揄されもする。

LEONは群れないオトコを理想としている。
でも孤独かといえばそうではない。

群れというマジョリティの“正しさ”から解放された自由な活動は
独自の知識と経験となり、それが個性を形作る。
個性という磁力は、違う個性と引き合って、新たな活動をしばしば生みだす。
だから、群れないオトコには独自の知識と経験を携えた
個性溢れる“群れないオトコ”が自然、集まってくるものだ。

デジタル界の次世代のリーダー候補とも評される
ある経営者の方と知り合う機会に恵まれた。
その広範囲にわたる興味と深い知識は感嘆させられるばかりだった。
にもかかわらず「中途半端の浮気性で専門知識がなにもない」
そして「だから僕は面白い技術とそれをもった人を繋げるだけ」と自嘲する。

しばらく連絡が途絶えていた友人から久しぶりのメールがきた。
どうやら自身が立ち上げた会社を、半年前に追われたそうだ。
原因は「群れの“正しさ”から外れたこと」にあったらしい。
ひどく落ち込んだ時期もあったようだが、それを支えてくれたのが仲間だそうだ。
その個性的な仲間とともに、「すぐに再起も余裕」と笑う。

僕から見れば、彼らは典型的な群れないオトコだ。
デジタル世界の「いいね!」の数より
個性の磁力を信じる、生臭い魅力に満ちたひとりの雄だ。


「誰にも似てないあなただけの個性を」と、多くに人に語りかけるファッション雑誌が謳うのは、自己矛盾というか、ある意味滑稽なことである。その背景には「とにかく売れればよい」という志向があるように思えてならない。大学の頃、記号論について考えていた頃、有名な本にそのような事が書かれていた。

ファッション誌にこのような事が書かれていても、どう理解していいのかよくわからないし、この文章に感化され、この雑誌の愛読者になるなら、まさにミイラ取りがミイラというやつであろう。

でも「磁力」という感覚は、少し共感できる。それは、言語ではなく、その人の雰囲気のようなものであろう。自分が良い磁力がだせるかわからないが、せめて、誰かが良い磁力を生みだしていれば、それがわかるようにはなりたい。

メダカとドジョウ

2015年03月15日 11:55

先週末、楊貴妃メダカ5匹とシマドジョウ2匹を購入した。

メダカは、これからの産卵時期を見据え、購入。もともと楊貴妃メダカ2匹と青メダカ2匹を買っており、子供がたくさん生まれたのであるが、楊貴妃メダカの色素は弱いのか、青メダカ系か、黒いメダカが多くを占める。そのため、楊貴妃メダカ復活を狙い、購入した。シマドジョウは、メダカとの相性がよく、余った餌や苔を食べてくれるとのことで購入。ベランダ水鉢に1匹、室内に1匹入れた。どこまで掃除してくれているかわからないが、なかなかかわいい。

春に向け、メダカは元気である。室内は冬も温暖なので、もともとよく動くのであるが、ベランダのメダカは、踊り狂ったように泳いでいる。それでも、近づくと驚いて、ホテイアオイの影に隠れるのであるが、しばらくすると水面に出てきて、泳いでいる。

彼らが生まれてから、約1年。ベランダメダカはそこそこ大きくなったが、室内メダカは、それほど大きくならない。室内は容器が小さいし、微生物の多さということで、全く環境は違うのであろう。彼らは、何を思っているだろうか。

今年は、出来るだけ卵をふ化させてみよう。

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些細な変化

2015年03月15日 11:52

お茶を習い始めてから、日常生活も多少変化した。

些細なことであるが、自炊をするようになり、髪にワックスを付けるようになり、爪を切るようになった。

自炊と言っても、ご飯を炊いて冷凍して、お茶漬けで食べるという程度。それでも、これまでの生活に比べればかなりの節約になるし、生活感がある。

髪にワックスを付けると言っても、軽く整えるために少量付ける程度である。これまでぼさぼさで気にしなかった髪型だったが、30歳にそぐうように、多少まとめた。そういうことは、人間の本質ではないかもしれないが、重要である。

爪を切ることは、当然稽古のためである。

とても小さいことで、周りからは何も気づかれていないであろう。でも、良い変化である。

世界が変わる日、世界が変わった日

2015年03月11日 00:01

とても、良い出会いがあった。これまでとか、これからとか、そんなことではなく、ただ出会えたということに幸運を感じるような、そんな出来事である。

核兵器を持つよりも、自衛隊の人たちに演説をするよりも、ひとりの人間との出会いの方が、世界を変えるに値する。

とはいえ、現実的に世界が変わってしまった日から、明日で4年である。とても、あっという間とはいえない、私にとっては長い4年であった。

今日は名古屋は大雪だった。明日は、よい天気であってほしい。

136_田光八幡社(愛知県名古屋市瑞穂区)

2015年03月08日 19:13

名古屋市瑞穂区大喜新町にある神社。「田光八幡社」とも称する。782年に熱田神宮の神官である守部公彦正が創建。熱田神宮の真東の鎌倉街道沿いにあり、熱田神宮の遙拝所であったと伝えられる。かつては神宮寺、高座宮とともに熱田神宮関連の神事が行われていた。
(wikipediaより)

一年程前、名古屋に引っ越してきた際、役所で観光案内ガイドブックを貰い、そのなかに記載されていた神社。豊川稲荷の帰り道なので、寄ってみようと思った。住宅街に丘の上に立っているのであるが、休日だからか、老人で賑わっていた。私は菩提樹である楠を見た時、生きていた良かったと思った。その生命力に、歓喜した。ふと振り返ると、車いすを押したお母様が、参拝していた。とても良い光景に思えた。

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135_三明寺(愛知県豊川市)

2015年03月08日 19:12

愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院。豊川弁財天の通称で知られる。正式名は「龍雲山 妙音閣 三明禅寺」。本尊は千手観音。
(wikipediaより)

三重塔見たさに訪れたが、その華麗さは、身に行く価値があった。最上層のみ禅宗様で、下層が和様なのだが、屋根の反りあがりでそれがわかる。寺院の周囲は、駐車場なり閑散としているのだが、こんなに美しいものが、自然と立っているものなのだな・・・。

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134_豊川稲荷(愛知県豊川市)

2015年03月08日 19:11

愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院。正式の寺号は妙厳寺。詳しくは「円福山 豊川閣 妙厳寺」と称する寺院である。境内に祀られる鎮守の稲荷(吒枳尼天)が有名なため、一般には「豊川稲荷」の名で広く知られる。豊川稲荷は神社ではないものの、商売繁盛の神として知られており、境内の参道には鳥居が立っている。また、日本三大稲荷の1つとされる。北海道・東京都・神奈川県・大阪府・福岡県に、別院を持つほか、修行道場として僧堂を設置している。豊川高等学校を運営。
(wikipediaより)

定例へ行く際、豊川稲荷行きに毎週乗っているが、豊川稲荷そのものは初めて訪れた。名古屋から東へ1時間。愛知県のなかでも静岡に近い。そのためか、境内は方言が飛び交い、地方色が濃かった。初詣などでは、きっと大勢の人で賑わうのだろうと、何か、多くの人を惹きつけるような、そんな磁力を感じた。
境内にある三重塔は、凛としていながらも小柄で愛らしく、建築と模型の中間のように思えた。住宅や公共建築ではそのようなことは起きようがないが、社寺建築は神様や霊が住む場所。それゆえ、現実的なスケールとは別の所に、本質がある。

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春へ

2015年03月07日 21:25

表千家へ入門しようか迷っている。今日初めて知ったのだが、茶道は、学ぶ時に契約を結ぶ。何か能力を得た時に称号が得られるのではなく、何かを得ようと決心した時に、契約を結ぶ。とても、私にとっては心地よい考え方である。

茶道の先生は、褒めるのが上手である。私は茶道に向いているのだそうだ。その理由のひとつは、まったく動揺が感じられないから、だそうである。たしかに私は、自分の感情が表面に出ない。原因はよくわからないが、幼い頃より、自分の感情と、それを外部から受けるとる人々のリアクションが一致せず、いつからか、表情を変えないよう意識してきたのではないかと思っている。しかし、それは同時に、出来るだけ心を乱さず、あらゆる物事に対して一定の感覚で接したいという気持ちがある。それゆえか、それが仕事では上手くはたらくことはあるが、プライベートでは、多くの場合逆効果であった。

今日、茶道のお稽古から帰った足で、スポーツジムへ行った。ジムはこの3月で辞める。故に、残り少ない回数をしっかりこなすことを心がけている。4月以降は、ランニングと室内での筋トレ程度になるが、3月末の身体をしっかり記憶し、今後の運動に役立てる為である。

茶道とジムは、運動としては異質なものであろう。以前、西岡常一棟梁が言っていたが、木を削る時、電動カッター(だったかな)で削ると、木の繊維を切るようで、良くないのだそうだ。ウェイトトレーニングは、ややそれに似ているように思う。ウェイトトレーニングそのものは、気持ちがよいと思ったことがない。一年間のトレーニングで筋肉隆々にならなかったことを思うと、単に私の体質には向いていないということであろう。

段々と、薄着になってきた。気温が上がり、朝も明るい。突然寒くなったりするので、体調を崩しがちであるが、しっかりしっかりと、物事に対し考え、我慢をしながら、歩いていこう。

深夜、眠りから覚めると携帯を見る。そこにあるメールが、今は歓びである。

春が近付いていると、そう感じる。

なにもない、ということ。

2015年03月04日 21:09

なにもない、ということは贅沢なことです。私はそれは、茶道を通して、再度学んでいるように思います。

でも、強いて言えば、スパイスの効いた美味しいカレーが食べたいです。


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