身体が少しだけ軽くなる本

2014年11月30日 21:43

『ウドウロク』著:有働由美子

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NHKアナウンサーの有働由美子さんの処女本。45歳(本人いわく)中年女性のあり様を、飾らない言葉で述べる、というもの。私はこの類の本が好きではなく、読んだ後もその感想は変わらないのだが、でもこの本は面白く読めた。

なぜこの手の本が好きになれないかと言うと、「本音で語る」と言うことが、TVのなかの(特に)女性においてはある意味ファッション化しており、「本音で語る」ということを演じているように思えるからである。これは私の偏見かもしれないが、どちらにしても興味を惹かない。この本においては、素直に書かれているような気がして、五木寛之の『孤独の力』とどちらを読もうか悩んだが、こちらを選択した。

有働さんは、新人に近い頃からニュースで見ていたので、親近感がある。しかし、ここ数年はTVを見ないため、最近の情報が皆無であった。まさか有働さんが45歳になっているとは思わず、また、折に触れその姿をTVで見て来たが、色々な苦悩があったのだと、当たり前のことを感じた。

こういう本は、「こういう人も平凡なことで悩んでいるのだから、私も頑張ろう」と思えれば、それでいいのだと思う。私自身もそうである。自分が独身中年に向かっていることを、15歳年上の「先輩」の話を聞き安堵しているようではどうかとも思うが、少し身体軽くなった。そんな本だった。

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92_浄瑠璃寺(奈良県木津川市)

2014年11月30日 21:18

真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人である。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来する。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。

本堂に安置された阿弥陀如来像に迎えられた瞬間、私はとても大きな存在に抱きかかえられたような安心感を覚えた。私はそもそも仏像に興味があるわけではなく、建築的な関心からこの旅を始めているのであるが、これほどまでに包容感のある仏像に出会ったのは初めてだった。住職の教え通り、まず懺悔をしてから願いを唱えた。手を合わせながら、私は涙した。とてもありがないものに接しているような、そんな感動があった。
池を挟んで向かいに起立する三重塔も美しかった。軽やかで凛とした姿は、あの人に内部にある、芯の通った何かを連想させた。

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91_八所御霊神社(奈良県奈良市)

2014年11月30日 21:17

秋篠寺の鎮守紳で、社伝によると本殿は宝亀十一年(780)創建、保延元年(1135)類焼、同年再建したというが、現社殿は室町時代の増築。当所は御霊神社と称したが、貞観年中(859-77)八所御霊神社と改称したという。明治二十四年の『神社明細帳』には、祭神を崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人・橘逸勢・文屋宮田麻呂・藤原広嗣・吉備大臣・火雷紳。と記されている。本殿瑞垣内の二小祠は『宰相宮』と『野ノ神・荘厳紳』である。

秋篠寺と合わせて参拝。鳥居をくぐり、石畳を歩くが、途中から本殿まで砂利が敷きつめられており、無の空間を感じる。歩いた後があるため、本殿に近づくことが可能と判断できるが、左右に配された蔵(?)には、近づけない空気が漂う。近づけない、触れられないということは、現代においては豊さである。神社に感じる神聖さを、いつもと同じように感じた。

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90_秋篠寺(奈良県奈良市)

2014年11月30日 21:16

奈良県奈良市秋篠町にある寺院で勅願寺の一つ。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の法相宗(南都六宗の1つ)の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。

11月の終わり、もみじの絨毯を歩きながら、境内を散策した。本堂内は、とても荘厳であり、神聖な空間のように感じた。しかし、最も感動的だったのは、名もない小道である。光と影による奥ゆかしい場面の連続で、私はその儚い美しさに身を投じることにした。

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89_萬福寺(京都府宇治市)

2014年11月30日 21:14

黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。

山門をくぐり境内に入った瞬間、異国情緒を感じる。どこか懐かしい、台湾の香りがした。堂塔が左右対称に配置され、明快な軸線を持っていた。それぞれのお堂がしっかりと距離をとり配置されているため、晩秋の日差しが大地に十分に降り注ぎ、心地よい空白感を感じた。特に、法堂前の庭は、虚無感に満ち美しかった。
紅葉の京都。しかし、人里離れているためか、人がまばらで、無のなかを一人歩いていた。その時、私は自分という実存を感じていた。ただ、私はここにいるのだと・・・

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社寺建築へのガイドブック

2014年11月29日 21:24

『古寺巡礼』著:和辻哲郎

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言わずと知れた名著である。以前、大学の頃トライしたが、途中で挫折した。今回読んでみると、いわばこの本は社寺建築と日本文化へのガイドブックなのだと気づく。そして、書かれているものが和辻哲郎の私見であると考えれば、すんなり気楽に読めた(学生の頃は、それができなかったのである)。

記憶に残った記述を備忘録として残す。

わたくしはあの堂塔が、あれほど古びていなかったら、あれほど美しいかどうか疑問だと思います。しかしこの詮議は無意味ですね。われわれの前にはただ一つの場合しかないのだから。

和辻がどのように思いそう記したのか、よくわからないが、とても美しい言葉だと感じた。私もそのようなことを学生の頃考えた。古くなり、味わいが出て、歴史的に評価される建築というものは、幻想ではないかと考えた事があった。しかし、私たちはそれほど多くの選択肢の中から物事を選んでいるわけではない。生きる時代を選ぶこともできない。法隆寺の美しさが歴史的に重層されたものであろうとなかろうと、当時の姿を知ることは誰にも不可能なのである。

僕らは、いつだって、ある物語の断片を知るにすぎない。それは、貧しいことではなく、きっと豊かなことである。なぜなら、その物語の全てを知ることができないから。そこに想像の余地があるから。

いかに多くの物を手に入れたかよりも、希望の地がどれだけ広いかのほうが、僕らの日々を豊かにしてくれるように、最近思う。

償い

2014年11月29日 20:03

昨日、昼の12時37分のメールだったか、それを38分頃確認してから、一日はゆっくり動き始めた。

45分頃、計画変更の図面一式を両手に持ち、通路を歩くと、ちょうどその人は向こうからやってきた。視線をそらすためか、パーティションに貼られた年賀状を見て、私とやり過ごしたかのように思えた。先々週の木曜日、夜10時頃にかけた言葉から、先週木曜日、言われた言葉。今週火曜日の談笑を最後に、どこかしっくりきていないように思えた。昨日、早朝に送ったメールが、その人を辟易させたのかもしれない。そう思ったのである。

計画変更を出してから、近くのスタバへ向かった。平日のスタバは空いていた。午後15時からの講演会まで少し時間があるため、ラテを注文し、メールを打った。私は、これまでとは少し違うつもりでいた。唐突ではないし、しっかり顔を見て話をしてきた。だから、さほど躊躇いはなかった。すぐに返事が返ってくるとは思わなかったが、やはりしばし携帯が鳴ることはなく、最近の疲れからか仮眠をとった。

その後、建築家竹原義二の講演会へ。少し興味があった建築家であり、素材についてのレクチャーだったため、参加してみた。久々に「建築家」の話を聞いたが、なかなか面白かった。某大手建材メーカー主催なのだが、竹原氏はいかに本物の素材を、素材の合った使い方をするかということを熱弁していた。興味深かったのは「これ、いいんですよ」「とても気持ちがいいんですよ」など、自分の作品を絶賛する。いや、これは違う。彼がそう言葉を発するのは、作っているのが竹原氏ではないからである。作っているのは素材であり、そのための構法であり、そして職人である。彼はあくまで設計者として、話していた。だから「彼ら」が成し遂げた美に対して、絶賛していた。これは、私にとってはとても気持ちが良かった。

それから仕事の電話を済ませてから、西の闇へ。連絡が来るまでの間、しっかり待っているだけの精神的余裕が私にはなかった。どこか、排気ガス渦巻く、汚い世界に身を置きたかった。その時間は、やはりどうしようもなかったが、どうしようもないことに金と時間をかけることで、自分の精神状態を保っていた。

惹き返しても、何も返事がないことを思うと、私は絶望していた。いつかと、またいつかと同じであると。私は犯罪者であった。講演会へ行く途中にあった神社で、その人が健やかで軽やかであることを願ったが、願いは届かなかったのか。私は、もはや没落した人間でしかないのかと。食欲もないまま、コンビニでパンを買い、帰りの電車に乗る。

社内にて、そのメールは突然入った。私は一気に読んだ。そして、とても暖かい気持ちになった。さだまさしの「償い」を聴いていたこともあるが、自分が許されたような気がした。そしてすぐメールを返した。

家に帰り、シャワーを浴びて、もう一往復メールのやり取りがあってから、私はまったく食事をとっていないことに気づき、鞄のなかからパンを取り出して食べた。それは、決しておいしくはなかったが、僅かに幸福な味がした。

内部へ

2014年11月24日 22:00

丸山洋志という建築家が、同職業の南泰裕氏と対談した「生きのびるためのコーリンロウ」という音声がある。2008年10月に録音されているので、私が大学院の2年生、就職が内定し、うっすらと社会人としての生活が見える中で、それを振り払い修士論文に没入していた頃である。私がこれを研究室で聴き、それから社会人になってもipodで聴いていた。最初は、全く理解不能だったが、何かを探り出そうとする丸山先生の熱に感化され、何となく聴いていたのだが、何回か聴くうちに、自分なりの内容を理解できるようになった。

今日、改めて聴いてみると、これまでとは異なる感想と言うか、改めて自分が建築家として逃げ道を取ってきたことがよくわかった。

丸山先生は、コーリンロウの論文について語る中で「いかにしてその内部へ入るか」ということを論じているように感じた。その「内部」というものを言葉で説明できるほど、私は知的ではないのだが、簡単にいえば、我々近代人が物事を思考するとき、何かしらの客観的指標によってそれを行う習慣がついており、その近代的な、ある意味冷めきった物事の見かたではなく、もっとドロドロした、熱いものに触れることができるかどうか、ということではないかと思う。

丸山先生の授業は、いつも何を言っているか理解できなかったが、先生は何とかして、その内部に入ろうと試行錯誤していたのだと、今になって思える。そして、ある意味、その対岸にいたのが八束先生ではないかと思えた。丸山先生の最終講義で、八束先生が、どこかの地点から方向が異なったことを話していた記憶があるが、八束先生はその内部への探求心というよりも、ある意味冷めたところで建築を思考する(まさに磯崎さんのポストモダンというものはそういうものかもしれない)という、よりレトリカルで知的な冒険の方に惹かれたのではないかと感じた。

Yくんと、時々建築について話をする際、私とYくんとのギャップもそこではないかと、今になってみると整理がつく。私の勝手な想像だが、彼はその内部へいかに入っていくかを考えており、私は、外部について、つまり「内部なんてないのさ」と嘲笑いながら、それがあたかも近代の没落と呼応した現代的な知的探索であるかのように、建築を思考していたように思える。しばし、自分なりのその軽薄さに気が付いていたため、可能な限り外部について語りつくせば、おのずと、その残骸のなかには、もっと輝かしい、大切な内部なる何かがあるのではないかと、私が考えていた。

今になって、改めて考えてみると、私のその感覚は変わっていないように思えた。仕事においても、一番苦手なのは意匠的な提案である。これが、意匠設計者の醍醐味であるとみんなが決めつけるものだから、なおさら私にとっては気が重い行為となる。施主要望や、法的な条件を考慮し、計画を整理することは好きであるし、そのための仕事量は他の人に負けていないのだが、意匠提案だけは、ないならないでも構わない。

その理由については、私自身、所謂現代の近代的な建築について、大義的なデザインの意味を見失っているからであり、故に社寺にその理想を求めているのであるが、結局は、学生の頃から変わっていないのである。いや、もっと言えば、物心ついた頃から変わっていない。私は、他者の内部に踏み入ることが、ずっと出来ないでいたのかもしれない。

私の癖は、同期であっても君付け、さん付けであることだ。そうすることで、他者との距離を置き、内部に触れる可能性を遮断している。いつからか、私はそのような癖がついてしまっていた。今をもってしても、それは同じである。

内部について語ることは、とても怖いことなのである。そこには、言い訳がない。内部は、まさの「それそのもの」が解であり、外部から、言語をもってああだこうだ言うのとは異なる。そして、外部的なものは評価がわかりやすく、また、評価をいかようにも解釈できるため、精神的に楽なのである。今から考えれば、私はそうして逃げて来たのである。

最近、得体のしれないとある人との出会いは、私に内部に触れることの大切さを教えてくれているようである。内部と言うのは、その物体の内側に触れることではない。その内側でさえ、他者として見ているのであれば外部でしかない。

逆に、このように述べることもできる。外にいたとしても、その内へ触れる勇気と優しさがあるならば、ずっと離れていても、大切な何かに触れることができるのだと。

心地よい住まい論

2014年11月24日 20:31

先日、母と香嵐渓に行った際、しゃれた本屋で見つけ、購入し、読み終える。

『ぼくの住まい論』著:内田樹

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内田樹の道場兼自邸の「凱風館」は以前から知っており、それに関する本がたくさん出ていることも知っていたが、どうも読む気がしなかった。まず、あの建築の形に興味が湧かなかった。さまざまなスペースの繋がりで、それが外形にも表出しているのだろうが、よくある学生的な手法な気がして、単に外装面積が増え、雨処理が難しくなるだけではないかと思えてしまった。シーランチなどは、何かしらの正当性を感じてしまうのだが、これはある異種の「お遊び」のように思えてしまった。

この本を購入したのは、売っていた本屋がとても心地よかったからである。そして、陳列された本が美しく、その雰囲気に誘われたのだ。ただ、やはり内田氏は尊敬に値する思想家であると、この本を読んで改めて思った。いくつか備忘録として残す。

まず、日本の林業や職人の問題については、改めて納得した。日本の森林が高齢化しているという点は、私が社寺建築を志す一つの明確な理由であるが、内田氏はそれを肌で感じていた点は、とても好感が持てた。

それから本棚について。内田さんの本棚には、読んでいない本、そして、いつか読むべきと自分を戒める本がたくさんあるらしく、内田さん曰く「本棚は、自分が周りからどう見られたいかの表出」なのだそうだ(正確な引用ではない)。

2階のセミパブリックやプライベートな空間には、特段の興味はなかったが、1階の道場の記述は心地よかった。そこは「無の空間」なのである。私が建築に求めるものである。建築畑でない人が論じる建築論の方が、最近は好きである。

88_御霊神社(京都市上京区)

2014年11月24日 11:27

京都市上京区にある神社である。旧社格は府社。上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。

たまたま通りかかったが、美しい神社だった。どうも応仁の乱の発端となった場所らしいが、今は美しい建築に満たされていた。美しいというのは、どちらかといれば近代的なプロポーション感覚があり、我々現代人にとっても、受け入れやすいものであった。

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