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「待つ」ということ

2014年01月26日 22:18

重要な本を読む。

『形態デザイン講義』著:内藤廣

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一連の東大退官講義の形態編。なかなか読む気が起きない本でもあったが、結局購入し読了した。なかなか、言葉では言い表しにくい本というか、ある意味、内藤廣さんという方は、これほどまでの野心家だとは思っていなかった。野心家というのは、スターアーキテクトであるとかそういうことではなく、建築に対する確固たる姿勢があるということである。

普段は、重要な言葉はメモに残し、場合によってはブログに記すのだが、そのような衝動が起きないというか、全てがある一貫して重要な事を静かに語っているように思え、そのようなことはしなかった。

しかし、とても驚いたのは、彼が「待つ」というキーワードを使っていることだった。「待つ建築」。なぜ驚いたかというと、私は内藤さんの言葉を聞く前に、「時を待つ建築」という考えを、ブログに記しているからである。もちろん、内藤さんの本を環境編、構造編と読んできているわけで、彼の影響を受けてのことだろうが、しかしこれほどまで一致すると、正直驚く。

私が「時を待つ」という言葉を思い立ったのは、新宿御苑で見た美しい建築の佇まいによる。簡素で、素材の合理性をそのまま形態化したような建築だったが、私を待っていたように感じた。内藤さんはアスプルンドを引き合いに出していたが、私は彼の建築は、私の環境よりもっと純化した白の美しい世界のように思われ、私を待っていたようには感じられなかった。しかし、この新宿御苑の建物を見たときに、まず浮かんだのはアスプルンドだったが・・・。

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風のイエも、いつからか変化している。おもなプランは変わらないが、意味が徐々に変化している。木が、年月を経つごとに色を深めるように。

そうか、風のイエはもう建っているのか・・・

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空と半屋外空間

2014年01月26日 22:04

最近、業務のなかで、いくつか思う事があったので記す。

屋上のソーラーパネルを設置する施設を計画しているのだが、営業設計ということもあり、メンテなどは考慮せず、屋上一面のソーラーパネルのCGを作製した。外注なのだが、その際、私はソーラーパネルに空が映り込むよう指示した。私は空が好きである。原広司の建築にあこがれる要因のひとつは「空」かもしれない。

また、外装はファインフロアなのだが、事例を調べると、ファインフロアで囲われた空間は、光が透過する半屋外空間で、とても心地よさそう。小住宅設計等には、とても有効な手段に思われる。

でも、今ブログを書いているこのテーブルは木で出来ているため、冬でも温かみがある。それはやはり、素晴らしいことだと思う。

色々な世界

2014年01月26日 21:57

昨日は、朝から東京へ。丸善でメダカに関する本を購入。元々は庭に水盤がほしいと思ったのだが、水瓶購入、水草購入、メダカ飼育、ビオトープという流れになってきている。生態系が循環する一つの世界を作るという意味で、ビオトープは私にとってはとても魅力的だ。最近は、そのことで頭がいっぱいである。嬉しい悩みである。

そのまま実家そばの歯医者へ。最近は良く歯を磨けているとのこと。ただし、以前虫歯になった歯がこのままだともたないため、金属カバーをすることにした。尊敬している先生なので、言う通りにした。

実家に帰ると、父と姉と姪。お好み焼きを食べ、炬燵でグダグダし、姪と遊んで昼寝。夕方家族と少し飲んでから、総合資格飲みへ。定期的に行われている総合資格飲み。色々な年代の人が集まり、ざっくばらんに話が盛り上がるので、とても心地よい。時々、このような会があると、気持ちがリセットされていい。

その日中に湯島に帰ってくる予定だったが、終電を逃し実家へ。フラフラで実家に泊まり、翌朝湯島へ。

午後、昼ご飯を食べてから、景品で貰った萩焼のお皿が届く。どこまでの続く夜空のように美しい模様で、ほれぼれする。棚に飾ることにした。

その後、松坂屋屋上の熱帯魚屋へ行く。松坂屋へは、ほぼ初めて入った。魚ではなく、サンゴ石と流木を購入。冬のメダカは水底で、石や砂利の隙間に隠れる性質のため、こういったものがあった方が気にいると思われる。家に帰ってきてセッティング。なかなかレイアウトが難しいが、さっそくサンゴ石に楊貴妃メダカが隠れこんでいた。気にいってくれれば良い。

屋上は、小さな遊園地が付随していて、親子連れでにぎわっていた。デパート屋上の遊園地は、なぜか郷愁を誘う。どこか、昔の景色である。

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考えながら、平凡な日常を生きる

2014年01月19日 21:49

今日は、難なく10km走った。先週は完全に走りきることができなかったが、この一週間の変化はなかなかである。

その理由は、平日必ず腹筋ローラーをすることである。そのように、日課を変えた。

昔は、平日も筋トレし、ある時期は早朝出社前に走っていたが、いつからか離れていた。私のなかで感化される何かがあり、腹筋ローラーは平日に移したのだが、これがおそらく良かった。日常的に鍛えていると、週末も楽である。

日々考えながら、平凡な日常を生きる。

風景-38

2014年01月19日 21:44

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店舗の屋上に設けられた開口。常に風を通る、抽象的な窓。窓が宙に浮いているようだ。

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浅草の商業ビルの足元で見つけた。水屋みたい。

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ただの鉄骨造のビルであり、(おそらく)既製品のサッシが配列されている。窓があいていると、やはり風を感じる。風を感じることが心地よいのは、そこに人間がいるからである。

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巨大な店舗内に設けられた階段。1m程度のレベル差になっているが、こういった高低差のある空間は好きである。

作家を志すために

2014年01月18日 20:41

三島由紀夫についての本を読んだ。

『生きる意味を問う』

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ブックオフで安く売っていたからであるが、まだ三島由紀夫を読んでしまった。「生きる意味を問う」というか、これまでのエッセイ集のようなものである。

あまりエッセイは好きではないが、三島由紀夫のエッセイは結構好きである。なぜなら、なんというか、所詮エッセイでしかないということを、彼自身良く分かっているからであろうか。或いは、下世話な話を語る三島程、面白いものはないから、と言えるかもしれない。

ちょっと勇気づけられたのは、「作家を志す人々の為に」というエッセイのなかで、綴られた言葉。

なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの実生活の分野で活動し、その結果どの活動分野でも自分がそこに合わないという事がはっきりしてから作家になっておそくはない。一面からいえば、いかに実生活の分野でたたかれきたえられてもどうしてもよごれる事のできないある一つの宝物、それが作家の本能、つまり詩人の本能とよばれるものである。

時を待つ

2014年01月16日 00:00

建つ当てのない「風のイエ」について、いつでも考えている。ひとつの家について、もう4、5年考えている。

耐震壁を設けようと考えている。木造設計の経験がないため、実際どの程度必要が良く分からないのだが、X方向に2か所、Y方向に4か所、左右均等に入れようとしている。(以前はY方向だけであった)

耐震性を高めるということが目的であるが、もっと壮大な目的がある。

色々な建築を見るにつけ、その場所の自然環境(重力、空気、光、熱など)に逆らった建築は、やはりどこかで破たんする。破たんというのは、地震で倒れるとかそういうことではなく、美しさが損なわれる。建築的美しさという意味では、その破たんは、建築そのものの破たんを意味する。

モダニズムの建築は、それで良かったのかもしれない。モダニズムの建築は、未来を想起させる建築である。それは、「未だ来ぬ未来」である。我々は、常に「わたしたち」と距離をとる。距離を置くことで、アヴァンギャルドたり得る。その美しさは、常に届かぬ場所にあるのだ。

カーンの建築を訪れた時、ずっと昔から、私がここへ来ることを待っていたように思えた。常に昔から「わたし」のそばにいた。そんな感覚である。そういう意味では、カーンの建築はアヴァンギャルドではない。

増沢洵は言った。常にアヴァンギャルドであるよりも、時代が建築に追い付くのであれば、それで構わない、と。

私は、その建築が、今後永い間その美しさを保っていることを、最近欲する。以前は、それは傲慢であると考えていた。時代は変化する。その変化を許容することが重要であると・・・

しかし、今の美しさを保持するということは、常に変わらない建築的意義を模索することであり、結局のところ、自然環境ということになるのではないかと思うのである。(自然環境は、常にざわざわ変化することは言うまでもない)

今、私が本当に美しいと感じるものは、遠い昔から美しかったのであり、これからもきっと美しいのである。

記録すること

2014年01月13日 21:32

ふと思い出したが、秋頃だったか、家に一人でいることができず、溜息交じりで湯島天神へ行き、ベンチで佇んでいた。佇み、空を見上げ、風に浸っていた。

また、朝晩と通勤時には、サザンの「いとしのエリー」を繰り返し聴いた。聴かなければ、精神的にもたなかったと思う。

辛いことは、忘れてしまう。忘れた方が良いこともある。でも私は、可能な限り、その感情を記録し、後から再現したい。その当時の感情を完全に再現することなどできない。あくまで、現在において、再生されたような気になっているだけである。しかし、可能な限り、当時の感情を再現したいのだ。

再現することで、当時の私と会うことができる。会うと、私に語ってくれる。私が変わったか、変わっていないか。そうすると、今の私はどうであるか、初めてわかる。

これは、私にとっては重要なことなのである。

浸透

2014年01月09日 22:26

先週、新宿御苑の美しい建築たちに会ってから、また建築について考えるようになった。私は、外部と内部が溶け合う空間が好きである。改めてそれに気がついた。

原広司の一連の反転住居には、いまだに憧れがある。考えてみると、あの建築も建築内部に外部(都市)がある。篠原一男の住宅にも関心があるが、篠原のスケールアウトした空間も、ある意味都市なのかもしれない。しかし、何となくであるが、原広司の建築にはスケール感があり、気持ちの良い空間であるように思える。

最近、湯島の部屋でも内外の浸透が起きている。それは、建築ではなくメダカによってである。毎日、外の水瓶を泳ぐメダカを見て、彼らが生きていることにほっとし、また、時々ガラス瓶にメダカを移し、室内で戯れている。外でボーっとする時間と、室内で外部を感じる環境が出来ている。

小さな生き物によって、私の生活は豊かになっている。

建築に、屋上庭園など存在しない

2014年01月08日 23:20

また、どうでもよいことで悩んでいる。いや、私にとってはとても重要なことなのだが・・・

屋根についてである。風のイエを設計する際、屋上庭園を設けるか、とても悩んだ。今でも悩んでいる。私は昔から、屋上のある家にあこがれていた。もともと風が吹いている環境が好きであったし、周囲と優しく隔離され、空に開かれた空間は、とても憧れをもった。今でも、その願望は変わらない。

しかし、風のイエに屋上庭園はない。2階に中庭があるのみである。近代の発明(?)である屋上庭園は、使い方によっては、さほどコストがかからず有効床面積がかなり増えるため合理的なのだが、なぜ採用しなかったのか。

最近ふと気がついた。近代建築にて、屋上庭園を設けたのは、「人間」の視点が、何よりも高く評価されるべきものと考えられたからではないか。空からの視点は、このあらゆる世界を俯瞰することができる。その俯瞰するための視点こそ、近代によって獲得されたものではないか。

社寺建築は美しい屋根を持つ。屋根から、下界を見下ろす視点は存在しない。なぜなら、その視点を持てるのは唯一神、あるいは、他の重要な「誰か」だからだ。

しかし、よくよく考えてみると、(いわゆる著名な作品としての)近代建築において、屋上庭園が実現されたものがどれほどあるだろうか。屋上庭園の提唱者としてのル・コルビュジエの建築について考えてみる。サヴォア邸は、屋上庭園というよりも、あたかも船を想起させるようなヴォリュームの戯れがあり、屋上庭園として活用できるスペースが少ない。屋上を大々的に緑化した建築では、(私が知る限り)小さな家やラ・トゥーレット修道院があるが、両者とも、そもそも屋上に豊かな生活をするイメージが提起されていないし、後者はパラペットを立ち上げることで周辺から隔離している。もっといえば、いわゆる名作と呼ばれる建築ほど、屋上は人間のために解放されていないように感じられる。

その意味を考えてみると、とても当たり前のことに気がついた。屋上に立つ人間の視点は、建築を踏み台にして成立するわけだが、近代建築家とは、建築によって世界を開こうとした人々である。建築は、(近代的な意味で固定化されたイメージとしての)人間を超えていく。それが近代建築家の使命だったように思われる。

結論から言えば、実は建築に屋上庭園は存在しないのではないか。もちろん、屋上庭園を作ることは容易だし、現にそのような建物はたくさんある。私が言っているのは、建築という定義が「感動」ということであれば、世界を俯瞰するための人間の視点を得るための建築であるならば、それは建築ではないのではないかということである。

湯島天神は、いつ見てもとても大きい。周囲には高いマンションが林立するが、全然その大きさが違う。それは、上記の理由によって、速やかに理解できるように思われるのだ。



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