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2013年12月29日 20:18

まだこのテーブルに触れてから半日も経っていないが、今とても幸福感に満ちている。とても美しい。天板の上に置かれたコップやカメラ、本などが、それぞれ価値あるものように思える。佇まいを引き立てている。

また、顔をうずめていたくなる。触れているだけで、気持ちがよい。また、木は熱伝導率が低く、冬でも温かみがある。においをかぐと、家具屋でかぐ北欧家具のにおいがするが、それ以上に懐かしい匂い。そう、学校の机である。今から考えれば、あれば木の天板であった。大学以降はプラスチック性がほとんどだったため、本当に久々に感じた。

木という素材の素晴らしさを、今堪能している。私はこれから、木を信仰の対象としていくことを、少し考えたりしている。自分の人生をかけるには、充分過ぎるテーマであるだろうし・・・

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難しい本

2013年12月29日 20:18

『危険な宗教の見分け方』著:田原総一朗 上祐史浩

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元オウム真理教信者で現在ひかりの輪代表の上祐氏に対する田原総一朗のインタビュー。本屋で見かけ、悩んだ末購入した本。

オウム事件は1995年であり、私は当時小学5年生だったが、単なる凶悪犯罪ではなく、メディアの取り上げ方含めセンセーショナルだった。また、私が記憶するニュースにおいて、最も古いものが阪神大震災であり、そして地下鉄サリン事件である。故に、ある意味強烈に残っている。そんな組織のなかにいた人が、どのようなことを話すかは、関心があった。

いくつか印象に残った話。

上祐氏は一般庶民のワン・オブ・ゼムになりたくなかったという。何か、意味がある生き方をしたいと。それが結果的にオウムに入ることになるのだが、私自身、ちょっとドキッとした。私にもそういう面が多少ある。もちろん、人を上から見下ろしたいとか、そういった征服欲ではないが、そういった感覚はわからないではない。オウムの問題のひとつは、優秀なエリート階層からも、多く入信していることである。三島問題について考えてもそうだが、私は優秀でなくてよかったと思うことがある。平凡な能力しかないため、ちょっとしたことで満足できる節がある。

本を読んで知ったのだが、麻原氏はダライラマとも信仰があり、それなりに認められた人でもあったらしい。ブータンではダライラマの説法を車で聴いたりしたが、そう考えると、オウムと他の宗教とは紙一重なのかもしれない。私自身、何か信仰がほしいと思う方である。でも、最近では、それは「素材」に思う。それは、物事の素であり、植物や生物であったりする。自然崇拝というのだろうか。

とはいっても、なかなか難しい問題である。でも、読むに値する本であった。

喫茶店的な本

2013年12月29日 20:17

『東京カフェ散歩』著:川口葉子

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東京のカフェを紹介する本なのだが、どこか小説的。それは、著者の文体に寄るところもあるかと思うが、美しい本である。また、日常の素材、光、風を映した写真が美しく、紙もちょっとざらざらして本自体がおしゃれな雑貨屋さんのような趣。早速明日神保町の名店喫茶に行ってみよう。

様相が変わる

2013年12月29日 12:06

年末にかけ、室内の様相が変わった。それは優しく、劇的に変わった。

湯島の部屋は、(一般的な部屋同様)居間と台所に別れるのだが、そのスペースが扉などで分離されていない。縦長で、しかもステップを降りる構成になっているため、その一体性が好きだったためであるが、ラウンジチェアに座りながら台所まで全て見えてしまうのも、それはそれで奥行き感がなくなる。

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そこで、元々あったアジア調の布の横に、ブータンで購入した布を垂らした。すると、空間が優しく分節され空間の強弱が生じた。色はなかなか派手なのだが、布はいくつも重ねることで、角がとれ丸くなる。少し派手なのも、ブータンの記憶として良いであろう。

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目黒で購入した、(多分)パキスタン産のランチョンマット。青と緑を購入した。新しいテーブルを購入するに際し店員さんに聞くと、基本的には天板の濡れ拭きはしないようで、ランチョンマットを敷くことがよいとのこと。それで購入。予行練習と実際に敷いてみると、感動だった。一瞬で世界が変わる。また、とても料理が美味しそうに思う。我が家ではこれまでそのような風習がなかったため、とても新鮮だった。

布の良さは、一瞬で世界が変わることである。レイヤーとして重ねることも容易だし、収納も楽。素晴らしい舞台装置である。なんとなく、イームズハウスでの食事風景を思い出したり・・・。

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彼女に貰ったクリスマスプレゼント。大正時代(?)に民家で使用されていた電話台。これがハチャメチャカッコイイ。イギリスの時計と、日本のソニースピーカー、イギリスのニッパー、フィンランドのアアルトグラスと、何だかタイムマシン装置のようで、楽しい。

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台所のラックにかけたブータン布と、折りたたみ自転車下に敷いたパキスタンの布。布は色々思考錯誤できることが良い。

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本日、目黒で購入したテーブルが届いた。チーク材の赤みがかった脚と天板が見えたときは、とても感動的だった。まず部屋に置いてみると、やはりちょっと大きい。もちろん想定内で以前のテーブルより縦横10cmほど大きくなっている。天板高さは元々73.5cmだったが、ウェグナーの椅子座面高さが低いため、72cmまであらかじめカットしてもらった。これはピッタシ。

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もともと、1960年代の北欧で良く使われていた仕様で、天板が左右に伸びる。130cm×85cmの天板は、もともと4人がコンパクトに納まるよい大きさであるが、天板を広げるとさらに50cmずつ伸びる。すると、計230cm×85cmという大テーブルへ。

テーブルを購入することは、なかなか難しいことだった。椅子は身体に密着しているため、人間工学的な美しさや機能性が問われ、用途に寄っても多様な椅子が生まれるわけであるが、テーブルというのはある意味天板が浮いていればよいので、何と言うか評価が難しいのである。10年程前に、家電量販店でセール品だったテーブルを使っており、まぁそれでもよいと思ったのであるが、合板の上に木目をプリントしているため、木目がはがれ、なんとも美しくない状態になっていた。

そこで、何度か目黒に行き、このテーブルを購入。理由は、美しい天板である。表面がとても美しく、触り心地が滑らか。ずっと触っていたいような、そんな天板なのである。また、エキステンション仕様であるにもかかわらず、しっかり安定感もあり、かつ、エンタシスのような丸みを帯びた脚が、シンプルで美しい。彼方の国で、どなたかが、丁寧に使ってきたのではないかと思う。

ひとり暮らしを始めた頃購入したテーブルは、量販店セール品で、そのためか大事に使ってきたわけでもなく、至る箇所に綻びが出ていたため、家具屋に持って行ってもやはり買い取りは難しいとのこと。葛藤はあったが、区に処分してもらうことにした。

決してテーブルとして使えないわけではなく、世界中探せば、きっとどなたかがほしがってくれると思うが、それが叶わないのが歯がゆい。

学生時代から私の図面や模型製作を支え、建築家として思考錯誤した時期がこの天板の上にあったかと思うと、とても申し訳ない気持ちになる。

少なくともこの寂しさは、私のなかではとても大切な感覚として残るだろう。

風景-37

2013年12月23日 22:19

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錦糸町のとあるレストラン。天井伏せを考える際、制気口・点検口配置にはそれなりに気を使う必要があるのだが、逆に天井と色を変えることで、ひとつひとつが模様のように見え面白い。照明との関係性も良。

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二子玉川で見つけた店舗兼住宅。単純な箱が浮いているという意味で、風のイエにちょっと似ている。どうも私は、四角い箱が宙に浮いている姿に惹かれる。とても(近代)建築的だからかな。

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目黒で見つけたガーデニング屋さん。店中に天使が配置されていたが、まぶしい光に憂鬱な表情を浮かべるこの天使が美しかった。写真を撮ってみると、それ以外に映っている天使が、皆こちらを見ているのも何か示唆的・・・?

「そうではない」からこそ重要な本

2013年12月21日 22:19

『GA HOUSES日本の現代住宅1970年代』を読む。

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以前図書館で手にしてから、この本はすごいと思っていたが、明倫館で1000円で売っていたのでラッキーと購入した。

日本の(或いは世界の?)建築界は、1970年代に消滅したと聞いたことがある。今から考えると、それはあるひとつの見かただと思うが(その消滅していく過程のなかでも、内藤廣氏のような存在がいたわけだし)、ただ、歴史的には分かりやすい。1970年の大阪万博、三島自決に始まり、学生運動、オイルショックと、高度経済成長への反動期であり、その後に続くバブルへの移行期である。

伊東豊雄は、事務所設立したこの頃は、いわば建築に未来はなく、暗い気持ちで建築を建てるしかないと、そんな気風だったらしいが、ただ、暗いながらも、建築そのものには強度がある。他の建築家の作品についても同様である。マイナスのベクトルであったとしても、建築に内在する力を信じていたように感じられる。

本の構成自体も暗い。相手に理解してほしいというような説明的な構成を取っていない。なので、文章はほとんど読まず、中をパラパラ見るだけなのだが、それでも十分刺激的である。

今、私が志す建築がそうでないからこそ、ある意味逆のベクトルだからこそ、しっかり持っていたい本である。

建築の原初的な本

2013年12月21日 22:05

内藤廣著『構造デザイン講義』を読む。

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既に『環境デザイン講義』は読んでおり、一応一連の著作ということになるが、趣は全く異なるように思えた。考えると、構造は建築であり、設備は建築とは分離されて考えられる節がある。設備機器ということになれば、尚更意匠設計者は目立たないよう、可能であるならば意匠的に見えないよう努める。構造は可視化しやすいものであり、意匠形態の一部になるため、構造は建築意匠に近いと考えられる。

私自身意匠設計の仕事をしているから、『環境デザイン講義』は(私が設備に疎いということもあり)斬新な話しに思えたが、『構造デザイン講義』は、昔から変わらない当たり前の事象を、当たり前に話しているように思えた。内藤氏が述べる言い方では、現在の建築界の空洞化を、まさに埋めるような、そんな作業に思えた。

結構耳が痛い話でもある。私は、内藤氏が述べるエンジニアの域には到底達していないし、努力を怠っていると言わざるを得ない。業務の忙しさもあるが、構造は構造設計者の解析に任せ、彼らの提示する数値ありきで物事を考えるようになっていた。最も、新築の設計はほぼ初めてに近かったため、しょうがないとも言えるが・・・

構造のそもそもの性格付けについては、とても面白い話だった。S造かRC造かの選択は、コスト・工期、振動・遮音性等によるもので普段判断している。段々職人が減っていく現状、S造か何らかの乾式工法が優勢となると言われており、建物の要求される諸条件から構造を選択することはあっても、構造そのものの声を聞くことを、私は怠けている。

以前他の意匠設計者と打ち合わせをした際、「このような形態を作りたいが、構造的に可能か?」と構造設計者に質疑したことがあるが、私は違和感を覚えた。私は、構造と空間を分離することは、何となく美しくないと思えたからである。意匠と構造にヒエラルキーが存在する時点で、この建築は上手くいかないように思えた。

この本を読んで、ある意味内藤氏の恐ろしさを知った。それは、彼の現代建築のヒーロー達に対する批判の眼差しである。ざっくり言えば、私はザハは好きではないが、ゲーリーは結構好きである。何故と言われても分からないが、好みとしてそうなのである。ただし、彼らの出現を否定的には思わない。ある意味、時代の必然性があるように思えるからである。

内藤氏の批判的な考察は、建築界が色めき立っている中でも、ずっと変わらず、水面下で(?)あったのであろう。そう思うと、結構すごいことのように思う。

今日、目黒のインテリアショップでテーブルを買った。散々歩き、見、迷ったなかで、1960年代のチーク材でできた北欧のテーブルとした。購入した要因は色々あるが、店員さんとの会話だったかもしれない。私は、このテーブルの(成り立ちという意味での)「構造」について質問した。このテーブルは、天板は無垢材ではなく、表面に薄い化粧用の材を用いていると言った。だからといって、木の質感が損なわれるわけではないが、もし無垢材が良いのであれば、きっと他の店を覗いた方がよいと勧めてくれた。

実際には、この年代の北欧家具は完全な無垢材はないようで、表面に化粧の木材を用いているのだが、私はその背景を知ることができ、そのような成り立ちであることの理由を聞けたことがよかった。無垢の材であることが本物であり、製材されたものが偽りなのではない。そこに、物としての存在意義があるかどうかが重要なのである。今日出会ったテーブルと、内藤氏の話は見事にリンクしているように思えた。

一番楽しかったのは、やはり木造の講義である。木は多矛盾性であるということ。私的には、ざわざわしているということ。その多様性を許容することは、一生をかけるに値する仕事のように思えた。

どんなものにも、そうであることの意義がある。いい本を読んだ。

平凡な日常と

2013年12月21日 18:01

今週は、一週間体調不良だった。朝起きると喉が痛く、外に出れば目と頭が疲れ、会社へ行くとだるい症状。段々治りかけた金曜日には、急に吐き気と頭痛が押し寄せ、診療所で一時間仮眠をとったが治らず、忘年会パスして早退した。周囲からは「こりゃ今夜は雪だな」と笑われたが、確かに昨日は雪が降っていた。

といっても、会社へ行っても仕事がなく、せかせかしている周囲の手伝いをすれば良いのだが、投げたボールの返却待ち状態のため身動きが取れず、なんともゆっくりとした一週間であった。定時過ぎには帰社し、風邪か薬のためか眠気が適度にあり、毎日10時間睡眠という、あり得ない平日を過ごした。

ついこの前までは、現場との格闘で日々摩耗しており、ほんのこの前までは、プライベートな事情で朝起きる度に陰鬱な気持ちだったが、今はその両方がなくなり、個人内在的な悪のみと戦えば良いのであるから、実に楽である。

人は2つの苦しみを同時に感じることができないが、裏を返せば、ひとつの苦しみは常に持っているということなのだろうか。いや、完全にハッピーな日々を送る人もいるし、私自身そういう時がないわけではないが、でも、もしかしたら、たった一つ苦しみや悲しみを持つべきと、人間にはプログラミングされているのかもしれない。

もしそうだとしたら、その感情はきっと無駄ではないのだと思う。

全く関係ないが、人間は動くものが好きであると最近思う。姪っ子をみていても思うが、私自身そう感じる。私の部屋にはテレビがなく、動画はパソコンで見ることになるが、本を読んでいても、何か欲求不満を感じることがある。

そんな時は、庭に出てメダカと戯れる。直径90cmの世界は、その世界を一望するにはちょうどよい大きさで、彼らの世界に浸れる(もちろん、それは私個人の妄想であるが・・・)。メダカは冬はじっとしていることが多く、あまり動かないのであるが、それでも彼らの日常がそこにあるような気がして、とても面白い。


Yくんへ

葉書と手拭いありがとう。実家経由だったため、届くまで時間がかかりました。
お互い良いクリスマス、年末を。

起源(オリジナル)

2013年12月20日 19:32

最近、家具を探していたこともあり、随分家具及びインテリアに関する本をみた(「読んだ」というより「みた」という方が正しい)。その中で、北欧家具の巨匠ハンス・ウェグナーについても、久々に読んだ(こちらは「読んだ」が正しい)。

学生の頃より、彼の家具の美しさに惹かれ、舐めるように雑誌を読んでいたが、再読してみると、新たな発見があった。

「発見」といっても、既に知っていたことであるが、彼の椅子は中国の民芸椅子に由来するということ。まさに「チャイニーズ・チェア」という名作もあるが、私が今座っているYチェアも、椅子の王様でもあるザ・チェアも、中国の民芸椅子に由来する。

「オリジナル」というものは、いやオリジナルということとは、どういうことであろうか。きっとそれは「私が、我々が本来的である」と、周囲に対して意識される態度ではないか。歴史的に言えば「起源」とは、他国・多民族よりも、自分の方が優勢なのだと示す時に、しばしば現れる。(もちろん、それが全てではない)

ただ、塩野七海さんのローマ論から、私が学んだことは「ローマは起源を求めないが故、ローマがローマである必要がなくなり滅亡した」ということだった。でも、それは「なくなった」というよりも、「溶けて同化した」ということであろう。

あらゆるものは、その存在が認められる限り「透明」ではありえない。

しかし、私はその「透明化」の過程を尊重する。そして、私自身、その領域へ尽力していきたいとも思う。なぜなら、我々が如何に透明を希求しようとも、我々は不純物であり、ざわざわした環境のなかで生きている。如何に純化しようとしても、そこには、それでも「なにか」が残るのではないかと思っている。

例えばそれを、「起源(オリジナル)」とでも呼んでみようか・・・

偉大なる趣味の本

2013年12月15日 10:48

『美しい収納術』カーサブルータス

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以前購入し読んでいた本の合冊本。どうも、私はこのようにモノが整理されている姿が好きである(整理されていない姿も好きであるが・・・)

色々な民芸品や家具も掲載されており、ほとんど読んでいないが、見ているだけで満足してしまうような本。


『夢の本棚のあるインテリア』X-Knowledge

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私は、いつの頃からか本がとても好きになった。その理由が最近少し分かった気がした。私の知識の源泉のいくつかは書物によるもので、その情報源が形として保管されるからではないか。そして、そのような小宇宙が詰まった本棚は、私が好きな風景のひとつである。

美しい本棚のある風景を掲載したこの本は、教養などではなく、全くもって私の趣味の本として心地よい。また、最近テーブルを購入しようと考えており、アンティーク調が良いのだが、そのような家具も多数掲載されているため楽しい。


『住宅特集12月号』新建築

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いつもはパラパラ見て終わりなのだが、ちょっと中を見てみると今回号は面白かった。全く新作が載っておらず、数年、数十年前に建てられた住宅と、現在の状態が記載されている。

建築が、時間が経過した姿が好きである。なぜなら、建築という人工物が自然の多様性のなかに触れ、より自然な形になるからである。いくつかの建築はその時間に耐えられず消滅するだろうし、またある建築はやっとその本質を現すであろう。

また、その変化に対する、人間の(ささやかな)抵抗や助長も楽しい。すっきりとした美しい建築空間が、雑多な日常品で埋め尽くされる様も、また多様性である。

この特集で挙げられたものは、現状の状態が優れているものに違いない。実際は、ほとんどの住宅が(物理的にも環境的にも)朽ちているのではないだろうか。また、写真だけで記録されたものを「正」としてはならない。まさに、私が住んでいたカプセルは、しっかりと時間を経たのである。写真で撮ると美しいが、現実には様々な過酷な状況もある。

今は、写真を見ると、多少そこに身体性を投影することができる。それは、実際に建築に触れ、建築に携わってきたからであり、日々の摩耗していく日常のなかで得た、まさに、嬉しい副産物である。



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