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8月30日(木)晴れ

2012年08月30日 23:05

身体が軋んでいる。最近は仕事のペースが緩い。というか、完全に上司の下で仕事をしている感じ。

ただ、今の上司が想定しているより私は仕事ができるように思える。前の部署で重圧を感じながら、なんとか客先、現場と対峙してきたからだろう。前の部署は花形部署ではなかったが、基礎的な面を鍛え上げられたのだと今更ながら思う。安西先生の言っていることは間違ってない。

とはいえ、建築の設計といえば言葉は良いが、このご時世ほとんどが「お化粧」の領域である。化粧に意味がないとは言わないし、重要な側面だろうけど(ポストモダン建築を見よ)、でも、少なくとも私にとってはそれは本質ではない。

私は建築の本質について考えたい。

なんでって、だって建築家だもの。
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8月29日(水)晴れ

2012年08月29日 23:34

可能な限り、液晶画面を見ない、視覚的電子情報を放棄した生活をしてみようか。

jock sturges の写真はエロか芸術か。児童ポルノか無垢か。

ま、どっちでもいっか。

やはり人間は度し難い

2012年08月27日 23:41

本日TVにてスペインの経済危機について特集が組まれていた。EURO導入によるバブル経済のしわ寄せ。なんとも人間は度し難い。

ただ、さらに無力さと滑稽さを感じたのは、マドリッド郊外の廃墟の建物群を見た時、今建設業が躍起になってやっているのはまさに「それ」であり、うちの会社も利益があがるなら、目の色変えてスペインに乗り込むに違いない。

そうであるならば、その組織に関わるならば、私はその犯罪(?)に手を染めることになる。

また、現状の解決策がオリンピックとカジノというのだから笑える。バブルをバブルで被おうとするとは・・・。

人間にとっては、高いところを飛ぶよりも、飛んでいるかのように走れる方がよっぽど幸福である。

私は犯罪に手を染めたくはない。既にそうした資本主義の国に育ち、建築が経済抜きに語れないと言われても、やはり私は犯罪者にはなりたくはない。

8月25日(土)曇り時々晴れ

2012年08月25日 23:48

製図試験まで50日となる。昨日からは、毎週の課題が最終本番だと思うようになった。また、本日作図しながら、「自分の図面を愛せよ」という学校教師の指導を改めて思っていた。

製図の勉強も兼ね、環境(主に省エネルギーという意味の)建築についての本を購入し読む。なかなか面白いことが書かれている。設備的な解決法もたくさんあるが、結局は光と通風のコントロール及び、個々人の精神にかかっているように思えた。

学習に詰まり、何をやろうと悩んだ時は、ハイデガーの『存在と時間』を読んだ。頭がからっぽになる。あの頃より頭にスイスイ入る。これは進歩だろうか退化だろうか・・・もちろんその二者択一には関心がないが。

本当に社寺の部署に入れなければ、私は会社を辞めると思うな。

今の部署は、前の部署と異なる共同体意識がなく、ある意味居心地が良く辞めやすい。それ以外の面でも、正直異動で来てよかったと思っている。

今週は勤務はユルユル過ぎて困った。来週からは申請対応を行う。

前の部署にて、責任のある仕事を任されていたため、今は(スキルの無い)キャドオペであることにそれほど不満はない。だが、責任を伴わない仕事を永遠と行うことは、精神的にキツイ。

今の会社での業務は責任が付きまとうが、それは社会的責任であり、人間的或いは建築的責任ではない。

それも精神的に難しいものがある。

最近相当目がしんどい。視力もかなり低下しているのではないかと思われる。

得るものが経済力しかなくなった時が、辞め時かもしれん。

とりあえずは製図合格だな。

8月21日(火)晴れ

2012年08月21日 22:15

製図試験まで54日。まだ業務が忙しくないため、会社でも製図勉強。

昨年より、レベルアップしていると思う。今昨年の図面を見たら、落ちても仕方ないと思える。

よい。

「何もない場所」の獲得へ

2012年08月17日 11:04

近所の住宅街や、電車車窓から住宅群を眺めながら、彼らの内部に「何もない場所」があると想像すると、たまらなく興奮する。興奮するという意味では、私のなかでこの理論は正鵠を得ていると言えなくはない。

「何もない場所」という概念が、私にとっての建築的目標であるとは思っていたが、まさか風のイエの中庭がそれにあたるとは思っていなかった。

もともとこの考えに至ったのは、建築家西澤文隆氏の実測集『建築と庭』を手にしてからである。製図試験対策問題集と共に購入したこの本には、西澤氏が実測した、古建築と庭との関係について考察されていた。

実測された寝殿造りや書院造、或いはそれと庭との関係を眺めているとき、私はふと、真っ白な余白を感じた。具体的に記されているわけではなかったが、そう感じたのである。

畳と襖によって構成された美しい絵画のような平面は、「何もない場所」を想定することで、理解できるような気がした。「何もない場所」へ至るために微分的な外延的構成。

考えてみれば当たり前のことだが、以前の住宅には「闇」があった。立ち入ることのできないトポスがあった。現代のように空間が経済に消費されてしまうと、「何もない場所」は消去されていった。

「何もない場所」とは、身近にあるにもかかわらず隠されていて、決して到達できない地点である。それは、我々人間の性にも似ている。フェミニズム論か何かで読んだが、異性が求める身体の部位は、肉体のなかでもっとも醜い場所であるという。それがとある神秘性を帯びることによって、永遠に手の届かないユートピアとなる。

人間が本来そうであるように、住宅もそうであった。闇が潜み、決して到達することのできない奥行きがあった。

しかし、この概念を公共建築に置き換えることが、私にはまだ難しい。公共建築では主題は人間ではなく、設備ではないかとしばし思うからである。

無論公共建築とは何について示すかにもよる。カーンの建築は、どれも住宅に近かった。

ただ私は、この「何もない場所」を住宅のなかに創出するということが、建築家としての主題であって良いと思うのだ。

それは資本主義化し、人間が機械化された現今社会より、空間を、人間を救い出すという物語なのである。

風景-29

2012年08月14日 22:42

記録した風景

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地元の商業ビル(とまで大それたものではなかったが)が解体され、更地になった。すると隣に隠れていた線路が見渡せ、田舎の装いを一層強くする。虚無的な風景。

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地元図書館から文化センターへ至る階段。建物に挟まれ谷になっていて、風景として結構好き。谷を形態化した建築家としては原広司が有名であるが、好きな理由はまだ分からない。

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都心の商業ビル。隣に建っていた建物の痕跡が見える。建物間の距離が狭い場合は、タイルは貼らないのだろうが、元あった建物が解体されると、その形が痕跡として残るとは・・・

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実家裏の雑木林。この町には4歳から住んでいるが、古里としての愛着はさほどない。ただ、この鬱蒼とした雑木林は小さいころから好きな風景で、一時大幅に伐採されたが、それでも木々の奥深さは失われていないようである。

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三鷹で見つけた商業ビル。最近ではやらなそうなデザイン。街で見つけると郷愁を覚え、どうも記録したくなる。

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とある民家の屋上。簡易的なベランダに植栽を見える。地上の楽園のように思える。いまでも緑化には惹かれるな。

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キャンティで貼りだされたボックス。大地震が来たら心配だが、形態としては好きですね。八束はじめさんの影響か、それともレムかな・・・?

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コンクリート製人工大地の上に建てられた普通の住宅。この普通さが面白い。

「何もない空間」読解

2012年08月14日 20:52

風のイエについての構造が多少わかり始めてきたため、現状理解している範囲で記す。

風のイエは、何もない空間(=「在る」以前の空間)を用意し、その空間が成立するやいなや風が通り抜け、空間が環境に解けていくその過程そのものを示す。

(1)まずは「何もない空間」を用意する。

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(2)「何もない空間」は、ある空間との対比によって初めて語りえる。それは「何もない空間」へ至るための相対的な空間である。

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(3)「何もない空間」は物質的有無とは無縁である。どちらでもありえる。ただし、物質的に何もない「何もない空間」は、物質的に何かある空間によって、物資的に何かある「何もない空間」は、物質的に何もない「所作」によって語りえるだろう。

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(4)「何もない空間」が単一で存在する場合、周囲には物質的に何もない所作によって語れることになる。物質的に何もない所作とは、行為そのものである。例えば、茶室のにじり口、あるいは光・風に対する開口等の扱いを指す。(例題:風の小屋)

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(5)「何もない空間」を物質的に何かある空間によって語る場合、虚と実という関係が想像される。中庭と所室でもよい。(例題:風のイエ)

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(6)「何もない空間」を大規模建築で成立させるための、いくつかの手法。(例題:ルイス・カーン)

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(7)「何もない空間」を都市レベルで成立させるための事例。

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(8)「何もない空間」を独立的に用意した場合、その空間を語ることはできない。「何もない空間」へ至るためのベクトルが存在しない、静止した空間として自立する(例題:ミース・ファン・デル・ローエ、篠原一男)

(9)相対的な空間は、性格の異なる空間の相互介入が望ましい。多様性をそのままに受け入れ、「何もない空間」への流れを生む。

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(10)「何もない空間」は主に(規模が拡大するにせよ)内部空間としての概念である。外部空間について述べれば、建物そのものが「何もない空間」であるための一例として、勾配屋根の効用がある。勾配屋根は直立するファサードに対し、虚のファサードを生成する。軒下の立面(と呼ばれる面)は影となり、存在を消す。虚のファサードにより、建物そのものが「何もない空間」への序論となる。

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上記の概念は、あくまで「日本」のみで成立しうる。日本と枠組みを外した場合はどうなるか。現在の私はそれを知り得ないし、知りたいという欲求も今のところない。

弁明と謝罪 -スポーツと運動について-

2012年08月11日 00:27

随分前のブログに対し、コメントを頂いたので、謝罪と弁明を一言。

〈下記コメント〉

>ボディビルダーはスポーツもできるのだろうか。多分できないのであろう。

スポーツによるんじゃないですか。
格闘技なんかは元ビルダーも結構いますから。


全くもってその通りだと思います。ボディビルダーのことを良く知らず、偉そうに書いたことは謝罪したいと思います。

この時のイメージとしては、やはり三島由紀夫の存在が大きかったように思いますね。三島自身はスポーツは苦手だったはずで、それ故に反動でボディビルを始めたように思われますので・・・

それから、今ならこう書きますね。「ボディビルダーは運動もできるのだろうか?」と。

スポーツと運動は異なると思っております。スポーツは決められたルールで決められた目標に向かって競うもので、運動は、決められたルールがなく目標も決まらないままに、それでも頭で考えても仕方ないから身体を動かしてみる、そういうことと(勝手に)解釈しております。

逆に言えば、運動とは自分が意識しない力(筋力でも精神力でも)が、気付かぬうちに鍛えられているような状態だと思います。例えばマルティン・ハイデガーの『存在と時間』という本はまさにそうでした。本の内容はさっぱりでしたが、その本を読んでいる自分に取り巻く「時間・空間」に不可思議さと奇跡を覚えました。

スポーツとは、ひとつの目標に向かって進むものですから、例えば(一般的には)サッカーだけが得意な野球選手は、良いスポーツ選手とはいえないと思います。ボディビルも、ひとつの思考に向かって鍛えるという意味では同様のことに思います。

ただ、結論から言えば単一の目標にのみ進行するベクトルなど存在しないわけですから、現実的にはどのようなスポーツも「運動」になりえるのですね。

ボディビルが、私にとってはあたかも「スポーツの表象」のように思えたため、そのように書いたのだと思います。

ですから、基本的にはボディビルという運動自体には、全く否定的な意味はありません。

悪しからず

【軒・屋根】 虚の立面(ファサード)

2012年08月08日 01:06

今日、久々に革命的なことがわかった。革命的といっても、もちろん私にとってなのだが、これはしっかり記しておかなければならない。

屋根についてである。

私はこれまで、勾配屋根については非常に悩んでいた。バウハウスをはじめとする近代合理主義が提唱した陸屋根に対し、勾配屋根が優れている点を指摘できなかったためである。

勿論、日本の民家が勾配屋根の系譜があるのは、基本的には高温多湿で雨の多い日本の気候によるものであり、風土的。機能的な面だけでなく、屋根とものがひとつの建築的象徴として扱われていたことも事実であろう。

一方陸屋根については、屋根をフラットに屋上庭園とすることで、新たな大地が創出することができ、今の時代断熱をしっかり行えば、別段屋根のふところがなく庇がなくとも、建築空間は成立しうる(近代建築的言語では屋上緑化がそれにあたるのだろうか)。

しかし、私はどうも勾配屋根に惹かれ、住宅を設計(空想だが)する際は勾配屋根を採用する。その理由の一端が、今日わかったのである。

結論から言えば、要は「実のファサード」と「虚のファサード」ということになる。

まずは実のファサードから。

実のファサードというのは、一般的に地面に対し垂直に立ちあがる面であり、立面図に描かれるものである。そういう意味では、どの建物にも実のファサードは存在する。

しかし勾配屋根、しかも軒が深い場合、ファサードの面が不確かになる。

最も陽光を浴び、光の面となるのは屋根であり、地面と垂直な面は影となる。いわば、本来(?)垂直にあるはずのファサードは、低い軒先より空に向かって伸び、人の目線から面が消えていく。

ファサードは、私たち近辺から、空に向かって消えていくのである。

「本来(?)」という言葉を使用したのは、これは西洋的な意味での本来であるからである。立面という概念は西洋的なものであり、当然ファサードも然りである。安易に西洋⇔東洋の二項対立をあげる気はないが、実のファサードは、至極西洋的な概念であるといっても間違いではない。

軒の出た勾配屋根が空に消えていく時、軒下の(西洋的な言葉で言うところの)ファサードは、もはやファサードではない。それは影であり、虚の立面である。虚であるからには、それは虚であるべきであり、西洋的ファサードのように、しっかりとして構成を持つものであってはならない。

屋根が空に消えていく時、もはや立面は存在せず、そこには屋根が消える際の残像だけが残る。

残像はいつか透明となり、そこに風が吹き抜ける。建築の実像は、風と共に溶けていく。

「コアのあるH氏のすまい」や「丹下自邸」は、ファサードと呼ばれる面が、しっかり影としての構成をもっている。そこに透明性の根拠があり、また風のイエの根拠がある。



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