ひとり、遠回り

2011年06月29日 23:03

設計の仕事をしているなかで、最も好きな時間は、ひとりプランを練り、図面を描いている時である。

残念ながら(?)、組織の設計業務を効率化するには、その時間を極力削除する必要がある。構想を練り、後はCADオペさんに頼むのが最も効率的だ。

私は構想をから施工まで、許されるならば全てひとりでやりたい。

もちろん、他者が介在する興奮を私は知っている。ただ、それは「建設」であり、「建築」とは、より内在的な行為であると思う。

そして、ひとり籠って建築を考えるなかで、いつしか寂しくなって、誰かに語りかける。

結局は他者が存在するのだが、その遠回りが私にとっては重要だ。

遠回りは、当然時間を要する。しかし、その遠回りこそが、人生の楽園だと思う。
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もうひとつの建築

2011年06月26日 21:48

南洋堂にて、とある本を500円で買う。

『もうひとつの家』 著:高松伸

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以前南洋堂に立ち寄った際、階段際の本棚で見つけ、ちょっと立ち読みし衝撃(好感・・程度かな)をもった本。また立ち寄る機会があったので見てみたら、まだ買われていなかったため購入。

建築絵本シリーズのひとつだが、高松さんのように難解な(?)建築理論を絵本で表現するのは一種の冒険のように思う。そのギャップというか差異が、私はとても好きなのである。

そして私は、この本は名著であると思う。とても気持ち良い本である。

その理由が、少ないことばで彼の設計思想を表現しているから(決して「説明」しているのではない)。

例えば「もうひとつの」というタイトルの表記だけでも、彼の建築の雰囲気を感じ取れ、彼の建築への入口へと誘ってくれる。

ただ、彼の建築を実際に見たことがあるか記憶にないのだが、現物はそれほど美しいものではない気もする。イメージのレベルの方が、逆に力が強いような気もするのは、「建築」の評価としてはどのように捉えればよいのか。しばし私はそれを、南洋堂へ下る御茶ノ水駅からの下り坂で、磯崎新の建物を見上げながら思うのである。

風の小屋―39

2011年06月26日 21:37

本日、午前中は家族でわが家の外壁塗装色選定のため、業者からもらった資料を基に、いくつかの住宅を車で見る。ちょうど会社業務でカラーサンプルの作成を行っているということもあるが、仕上げには敏感である。

午後から施工。霧状の雨が降る中の作業である。

先週東側の外壁材を張ったため、反時計まわりに北側を施工しようと思ったが、現在母屋には外壁塗装用の足場がたっており、スペースの関係で施工しづらい。そのため、北側を少しやってから西側施工へ移行。

西側は元々ドブだったため、敷地境界にフェンスがあり、そこに立って作業することになる。しかし私の身長ではそれでも建物上部は手を一杯に伸ばしての施工となる。そりゃ身体も疲れるわけです。

西側はある意味メインファサードとなる。東側は来訪者を受け入れる顔を持つが、西側は不特定多数の人と対峙する、匿名性を帯びた顔である。故に、何度か道路側から眺め、材質はこれでよいのか、傾いていないが確認しながらの作業となる。

杉材は端部が重ならないよう互い違いに張っていく。塗装前の木材はそれぞれに表情があり、特に意識せず並べたが何か奇妙な印象を持たせる。高松伸の建築について数日考えていたからか、高松の建築の奇怪さを感じた。建築とは、やはりどこか狂気を内在するものなのか・・・

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わたしたちは、余白を求めて

2011年06月25日 18:20

昨晩、ものすごい安宿に泊まった。今まで、いくつもの宿に宿泊したことがあったが、これほどの安宿は初めてである。

しかし、その部屋には大きな窓が2つあり、そこから見下ろす風景は、とても解放感に満ちていて、晴々とした気持ちにさせる。


人は、あらゆる事柄に満足したとき、最も退屈な人生を送ることになるのであろう。

逆説的だが、人は満足するための欲求を希求するが故、常に「余白」を生成することになる。

おそらく多くの人がそれに気づくことはない。なぜなら、それは事物として認識される「前」の事象だからである。


『あしたはうんと遠くへいこう』(著:角田光代)のなかで泉は以下のように語る。

「私はまたきっとだれか好きになる。スリランカにいたってどこにいたっておんなじだと思う。山口が煮詰まって海外いくこと選んだように、関係が安定すると私はなんでかぶちこわしたくなる。ばか面下げてまたばかみたいな恋してさ、全部だいなしにして、そんで、主婦的な生活が好きだなんてよく言えたもんだ、よくそこまで山口好みの女を演じられたもんだ、なんつって、また違うだれかを演じんの、もうわかってんの」

空から、空へ

2011年06月23日 18:45

当たり前のことだが、私は風の小屋を空から見たことがない。2階から見下ろすことはある。しかし、空からはない。

この当たり前の感覚に気付くのは、それは今まで、私は空から建築を見てきたということである。

現実的に建物を建てたことがなかった私は、「建築をつくる」ということはあくまでフィクションだった。

逆にいえば、ありもしない視点を設定し、あたかも世界を創造しうるかのように神の目を発明した、その近代的な冒険のすごさを思い知る。

小屋は高さ約3m。こんな小さな建物はないが、しかしこれほど大きな建物を、私は見たことがない。

今、まだ外装施工時なので、天井が張られていない。

雨が降ると私は小屋の中に入り、トップライトを通し空を見る。

それはとても心地よく、建築の強さと、弱さを同時に感じる。

哲学者でありたい

2011年06月22日 23:24

以前、何度か書いたが、哲学とは向上的学習ではなく、ある種の生命維持装置だと考える。

哲学を学ぶこととは「選択する」ことではなく、むしろ「否応なく、既に自分の中に在るもの」といえよう。

ならば、哲学を学ぶ者は哲学者では決してなく、既に我々は哲学者であるということになる。

しかし「哲学を学ぶこと」とは、全くもって不毛なことなのだろうか・・

しばし想う。

もし哲学を学ぶことによって、日常世界に於いて、何か効用があるとすれば、それは人に優しくなれるかである。

万人に対する親切心ではなく、危機的な状況下にて、手を離したらもう二度と失われてしまう世界を前に、その世界を、或いはそれとは別の世界を許容できるか、その一瞬の優しさである。

それは誰でも実行可能なことであり、生きる上で最も困難な諸行のひとつであろう。

私は、哲学者でありたい。

ソクラテスの言葉

2011年06月20日 23:38

結婚した方がいいのか、それともしない方がいいのかと問われるならば、私はどちらにしても後悔するだろうと答える

君が良い妻を持てば幸福者になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になるであろう

美しき空

2011年06月19日 20:49

最寄の駅に着いたら、空がとてもきれいだった。

いつでもそこにいて、いつでも視界に入っているのだろうけど、ときどき空は、おそろしい程に美しい。

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風の小屋―38

2011年06月18日 21:51

午前7時に目覚ましを鳴らし、一応身体は起きたものの、とてもじゃないがランニングなどできない。今週もフルに働き通したため疲労困憊である。

8時半起床、朝食後スーツをクリーニングに出してから、小屋の施工開始。先週に続き、東側の外装材を張る。

この建物は「墨」という概念が希薄なので、常にどこかから基準を追わないと、建物自体が曲がっていってしまう。ましてはホームセンターで売っている木材は、表記してある規格とはどれも微妙に異なるため、常に基準墨が重要となる。なので、常に基準線を確かめながらの作業となる。

一枚張っては遠目で確認する。ほぼこの材質で決まりなのだが、常にこれでよいか考えながら施工を行う。図面を作り施工し、施工しながら図面を修正する。まぁ、実際組織規模で行うことを自分ひとりで行っているというだけなのだが。

午前中東側の外壁を張り終える。張りながら、外装材とは、意匠材とは何か考える。先日Yくんとも少し話したが、構造体とは異なり、意匠材は(機能上)必要性が薄い。構造体がないと建物が成立しないが、意匠はなくとも建物は立つ。

しかし、建物を使用する人は構造体など一切関心がなく、大方の人は化粧にしか関心がない。以前大学の研究で、吉村順三の「軽井沢の山荘」をCGでモデリングし、表層材を変えることで、人々の印象がどのように変化するか実験したことがある。

CGを作成しながら自分自身驚いた。表層材が変わるだけで、建物の印象が一変し、それだけでなく、建物そのものの存在意義すら変化しているように思えたのである。それは私以外の人も同様であった。表層の、しかもCGで変更をかけるだけで、建物の存在は変化してしまうのである。

研究の結果として私が結論づけたことは、「建築の印象(表層によって規定されるもの)とは、多くの場合社会的な強制力のなかで相対的に位置付けられた評価でしかなく、故にその印象は実体性を持たず、常に流動的であるが、しかしそれは建築が(あるいは我々が)社会のなかで生きていくための重要なコードなのである。」ということであった。

つまり、たとえ本来的でなくとも、それは重要な意味をもつのだと。

構造と外装が分離して考えられている建築として、私はコルビュジエの「カップマルタンの休暇小屋」とアアルトの自邸を思い出す。前者はプレハブに小屋風の丸太張り、後者はコンクリート造に木の板張り。どちらも構造の考えとは遊離しているが、しかし、それが非本来的なものとは思えなかった。どちらの外装材なしには存在しえない建築のようであった。

当然私の小屋もそうでありたい。今アスファルトフェルトの上から杉材を張っていると、それはあたかも化粧材のようにしか見えないが、しかしそれが建築を構成する普遍的な要素となるのであるならば、それは建築となるはずである。

その境界を、つまり建築になる瞬間をしっかり見極めたいのである。

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二年前、この年月

2011年06月17日 21:50

この2年の間に、かつて自分が夢見、しかし叶う見込みがないと思われていたことが、いつしか日常化していた。

骨まで浸透してしまったこの幸福を、客観的に見られるのは、それを手放したときなのだろうか。

2年前、会社を抜け出し渋谷に向かった風景を、今でもはっきりと覚えている。その風景に照らして今を見ると、この2年間の変化は著しいものだと感じる。

想うことは、ただそれだけだ。


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