風の小屋―16

2010年12月31日 12:02

12月30日、遂に工事着工を迎えた。年内着工を目指していたいので、予定通りのスケジュールである。

午前10時、実家のイプサムにてロイヤルホームセンターを目指す。もう車の運転は慣れたものだ。現地に着き資材購入。事前に何回も確認していたので、どこに何があるかすぐ分かる。また、当然だが図面を全て自分で書いたので、図面を見なくても、だいたい何か必要かもしっかり把握している。

今回は建物の構造となる部分がメイン。なので単管パイプ、木材等を購入。その他養生シートや錆留塗料、金尺にヘルメット等など、まぁいろいろ必要なものがありますわな。

単管パイプが3mであるため、軽トラによる搬送サービスが不可とのことで、自分でトラックを運転することになる。1.5トントラック。車高も高いが、なんか簡易的な作りに見える。意を決していざ出発!とおもったら、サイドブレーキが見つからない。店の人に携帯で聞いたりして、出発が遅れる。運転自体は特に何の問題もなく、家に資材を置いた後そのままホームセンターに戻りトラック返却。イプサムに積めるものはそのまま積んで、再度家に帰る。

昼食を済まし荷物の整理をした後、明日の鉄骨建て方(なんて仰々しいものではないが)の工程を考え、本日中に基礎となるベースプレートの錆留塗料を塗っておく。明日の早朝もう一度行い、二度塗りを済ませる(というかさっき済ませた)。

客間の縁側はすっかり工事現場と化し、これから数カ月この状態が続くことになる。

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夜弟が帰郷し、母特製のピザパーティ。しかし私は、極度気持ち悪いほどの疲れを感じ、重い鎧で地面に沈みそうな感覚の中深い眠りに就いた。19時頃起き皆で食事をしたが、その後また熟睡。いやはや、いくらダンベルで鍛えようとも(上半身筋肉痛)1.5トントラックの運転はなかなか答えたようである。

そんなこんなで昨日記録を記せなかったので、今日記す。

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風の小屋―15

2010年12月31日 11:57

一昨日、契約図を発行したので、設計図書の内容を記す。

案件名:風の小屋 -Floating Tea House-
用途:佇むこと
所在地:風が吹く場所
構造:鉄骨造、木造
規模:上空1階建

基本設計:2006年春頃~2010年10月10日
実施設計:2010年10月11日~2010年12月29日
着工:12月30日
竣工(予定):特になし

建築面積、延床面積:4.08㎡(1.26坪)


図面はA3の方眼紙に書いていたので、コンビニにて白黒コピーし、簡易製本を行う。昨日帰郷した弟に見せたところ以下の会話。
「お兄ちゃん、この図面何を書いているのか全然わからないよ」
「ここにX4通り、X5通りって書いてあるじゃん。それで当たれば、どこの詳細図かわかるよ一応。」
「え?こんな狭い敷地に通りがあるの?」

建築は概して、建築畑でない人のリアクションの方が面白い。

風の小屋―14

2010年12月29日 21:01

本日、契約図発行。見積りは出していないが、契約を交わす(誰と誰が?)

明日、材料を発注し、建て方の準備をする。この年末年始に、だいたいの躯体は立ち上げたい。

今回図面は全て手描きであるが、詳細のレベルになると、CADを使いたい気持ちがある。前にも論じたが、CADは編集ツールである。つまり、施工図には適している。

CADに起こすべきか考えたが、まぁ細かいことは実際に躯体が立ち上がってから考えればよいかとも思い(設計変更の可能性は大いにあるし)、とりあえず現状の図面のままで。

明日必要な部材の購入数だけ拾っておく。

文学的肉体

2010年12月29日 20:56

昨日の晩、我が家に宅急便が届く。待ちに待った(2日待っただけだが)筋トレ器具が届く。ダンベルと腹筋ローラーである。クリスマスの子供のように、私は袋からそれらを出すのが待ち切れず、ビニールを剥ぐのも余計に時間がかかったりと、ほんとに興奮した。

器具を2階に運び、しっかり段ボール箱を処理し(そこが子供との差か?)、部屋にスペースを作って筋トレを行う。事前に雑誌「Tarzan」にてダンベルを使用した筋トレについて予習していたので、見よう見まねで試す。

これがいい。身体にずっしり効いてくる。今までは腕立てや腹筋など、身体に必要以上の負荷をかけてこなかった。しかしそれでも速筋が育たない。つまり、引きしまった身体にはなれど、凹凸のあるボディにはならない。

またダンベルのトレーニングの良いところは、鈍い金属音がするところ。ダンベルそのものの衝突音もそうなのだが、私の身体の内側で、身体が悲鳴をあげている。

そうなので、ダンベルなど必要上に身体に負荷を課すトレーニングは、どうもランニングした時のような身体の爽快感はさほどない。むしろ、身体に良くないことをしているような感覚がある。

同日、仕事納めで早めに帰れたので、某所の本屋に寄った。そこのスポーツコーナーに中田英寿を特集したランニング雑誌があった。私は手に取り読む。ランニングは風邪をひいて以来休んでいる。しかし、ランニングはやはり爽快なものである。特集している人の中に作家の角田光代さんもいたりして、しばらく読んでいた。

雑誌の中で、中田英寿がネット上でトレーニングを公開しているとのことで、さっそく家に帰り検索。「360すぽーつでぃ」というサイトで、運動をしようとする人々をバックアップしてくれるサイト。良く見てみると、中田のトレーニングメニューは見れるには見れるのだが、有料。1本、約10分弱で100円かかる。一瞬ためらうが、まぁ全然安いものではないかと思い、3本購入。すかさず見る。

この筋トレメニューは特別な器具を使わず、インナーマッスルを鍛えるトレーニングのように思えた。つまり、ボディビルダーのような披露するための筋肉ではなく、あくまで「使える筋肉」である。

私はずっと行ってきたのは、どちらかというと中田が公開したメニューに近い。しかしそれは、単に回数をこなせばよいものではなく、筋肉への意識であるとか姿勢であるとか、全体のボディバランスの修正も兼ねるため、考えることが多い。残業帰りの自分としては、できるだけ運動を単純化したい。

とりあえず中田のトレーニングメニューは全て記録した上で、やはり私はダンベルや腹筋ローラーを使ったトレーニングをしたい。今朝も筋肉痛(正確には昼ごろから来た・・・歳とったかな(汗))であったため、それは自分の中での安心感として残った。

ボディビルダーはスポーツもできるのだろうか。多分、そうではないのであろう(ボディビル自体がスポーツなのかもしれないが・・・)。中田は身体の芯から鍛えるトレーニングだったが、おそらくボディビルは(語弊を恐れずに言えば)見せかけの筋肉である。

三島由紀夫の筋肉は、まさに見せかけ、張りぼてである。三島自身、そのことは良く自覚していたのではないかと思う。見せかけ・・・というか、文学的と言った方がよい。文学的な肉体である。

私はボディビルダーになりたいわけではないが、運動している時間が好きである。今日アウトレットにて、アディダスのヨガマットを安値で購入。これから筋トレ励む。

過去と現在と、それから私

2010年12月28日 15:54

本日で仕事納め。一年が終わった。なんだかんだ、終わりはみな優しい。

サラリーマンはきっと忘却の生き物だ。いや、むしろ人間自体がそうだと思った方がよい。全てを確実に記憶していたら、人間なんてやってられない。

しかし私は、可能な限り記憶したい。いやむしろ、過去を忘却する主体としての自分と、現実に起こった事象との差異について考えたい。その間隙に身体を委ねたい。

三島由紀夫は自分が生まれた時の記憶があるという。それが本当であるかどうか、それを追求することはそれほど知的なことではない。しかし、三島由紀夫ほど「過去」という幻影に肉薄した人もいない。

私は歴史家である以上、忘却がいくら必然であろうと、過去というものと常に対峙していたい。私のブログはそのためにある。だから、常に思ったことを素直に書き続ける。それがいくら稚拙であろうが、である。

憂鬱と行動

2010年12月27日 23:44

申し訳ないが、サラリーマンの飲み会はつまらない。愛想笑いを浮べるのがやっとである。

皆、私が会社を辞めようとは全く疑っていない。私はなぜか、目上の方に可愛がられる傾向がある。ありがたいことではあるが、周囲の私に対する印象が、随分私自身と異なるように思われるのである。

そんなこと言ってもどうにもならんが、しかし、もし自分の生き方を貫くならば、多少周囲に迷惑を掛けても決断しなければならない。

とりあえず、今日ダンベル類が届く。明日で会社は終わりであり、風の小屋建設も始まる。

答えは常に、その行動の中に現れる。

意志のある建築

2010年12月26日 19:28

クリスマスの夜は、山の上ホテルにてディナーを、彼女と共に頂いた。山の上ホテルは、私の馴染みの街御茶ノ水に立っており、かつ三島由紀夫等多くの文豪が執筆のために利用したとのことで、一度は訪れてみたいと思っていた。

館内に入ると、ボーイ(というか女性だったが)が荷物を預かり、案内をしてくる。なるほど名ホテルの風情だ。

私は大正・昭和期に建てられた公共建築が好きである。そのデザインには、歴史的な「必要性」がある。

今ではその精神を察することは困難であるが、かつて、欧米の文化を意識せざるを得なかった時代、公共建築のデザインは、日本文化の命運を掛けた真剣勝負だった。故に、この時代のデザインには、良い悪いではなく、強靭な意志がある。

映画『タイタニック』のなかで、沈没船に過去の煌びやかな映像がオーバーラップされるシーンがある。山の上ホテルの階段をのぼる時、そんな感覚を抱いていた。もちろん、現在のホテルが沈没船というわけではない。過去の映像が勝手に投影してくるのだ。

それが、単に歴史的建築物の性格なのか、それともその建築そのものに内在する性質なのか、それはわからないが、近年の建築デザインには、やはりそういった力は感じられない。

ホテルでディナーを食した後は、近場のスタバにてしばし休んだ。程よく空いていて、とても温かい雰囲気だった。

彼女を見送り、ひとり電車に乗った時、ふと飛んでもないことを思い出した。お金を払っていない・・

すぐホテルに連絡をとり、後日振込にて支払うことにした。ホテル側の方ががよっぽど恐縮していたが、あまりに接待がスムーズだったので、お代を支払うという行為を全く忘れていた。

そんなこんなで、2回目のクリスマスは無事過ぎて行ったのであった。

風の小屋―13

2010年12月25日 17:23

今日は8時に起床し、朝ごはんを食べた後、車にてロイヤルホームセンターに向かう。誰もがこの文章をするするっと読むだろうが、私が車を運転するのは数年ぶりである。私は基本的に生活上車を使うことがなく、かつ運転自体それほど好きではない。事故を起こす可能性があるし、しかも環境を破壊する。

とはいっても、家を建設する際、全ての建材を自転車で運ぶわけにはいかないので、どうしても車が必要となる。ホームセンターに頼んでもどちらにせよトラックを使うなら、自分で車を運転した方が良い。

まぁそんなことを思い久々にハンドルを握ったが、実際は何の戸惑いもなかった。車は、思ったより私の身体の一部になってくれた。しかし車で往復し家に帰ってきてから、いつもとは異なる疲れがどっと出てきた・・・。

今日ホームセンターに行ったのは、いくつか材料を確認したかったためだが、もうひとつの理由として、具体的な工法の検証を行うためである。柱と基礎の関係についてである。

今回の建物に関しては可能な限り乾式でやりたいため、セメントによる基礎は打ちたくない。そこで考えたのが(というほど大それたものではないが)、テントなどをとまるピンで柱を簡易的に固定する、という方法であった。

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まず柱をセットする基礎を置き、そこに長さ600のピンを打つ。その上に柱を乗せる。もちろん耐震上グラグラだが、この基礎に求められるのは風に対する水平の抵抗なので、上に引っ張られて抜けることは基本的に問題ではない。

実際に柱を置いてみると、予想通りの感覚でまずはOK。これが4本立ち、その上に小屋が乗るのだから、自重によって基礎は安定する。柱はそれぞれ拘束されるから、柱1本だけ地面に食い込むこともないであろう。

柱を立ててみると、何というか拝みたくなる心持になる。そこに神様が宿っていると思ってしまう気持ちもわかる。

今回はあくまで実験なので、次回はしっかり位置を抑え、具体的な建設に入る。地鎮祭やらなきゃな(笑)

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建築論とその間隙

2010年12月25日 16:56

『DESCRETE CITY』著:原広司 を読む。

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冬季休暇に入る前に、図書館から借りた。

原広司は私の尊敬する建築家であり、理論家である。彼の「住宅に都市を埋蔵する」という理論も大変刺激的であったし、巨大建築物を設計させたら、(デザイナーとしては)彼は相当優れた部類に入ると思われる。

この本は以前、南洋堂かどこかで手にしたが、その時は特別読んでみたいという衝動はなかったように思う。今回再度手にし読む気になったのは、風の小屋とどこかリンクしているような感触があったからだ。原氏の建築は直方体で形態上は異なるが、自立建設であること、そのスケール感(風の小屋よりは全然大きいが・・・)が相似しているように思えた。

「ESSAY」という銘打たれた小論を読むと、なかなか唸るものがあった。どこに感心したがというと、彼が新しいシステムを、真剣に構想している点である。

現代建築に対する、私の矮小な建築論を述べれば、レム・コールハースの論理宜しく「近代建築の死」という問題がある。これは決して悲観する問題ではなく、いわば近代建築はある役割を終えたにも関わらず、我々の認識は至って近代的であるという点である。論理が失効したと言ってもよい。何かしらのシステムによって、建築を作ることが難しくなってしまった(書いていて思うが、実務レベルではシステムがあるな・・・思想上の話としておけばよいな)。

単一のシステムで社会がコントロールできないならば、無数の価値観によって、社会は流動していくしかない。それは興味深い対象であると同時に、建築家として何ができるかは疑わしい。何をやっても意味がないが、何をやってもよい。誇張して言えば、建築家の思想に誰も興味を示さない。批評性が消えたのだ。

・・・これは学生の時分に考えたストーリーであり、今からするとかなり一方的なお話であると思うが、しかし完全に的外れなようには思っていない。しかし今回、この本を読んで感嘆したのは、原氏が率直にその問題を解こうし、その理論構築のために建築を作ったという2点である。

彼は言う。

〈ディスクリートな社会〉とは、すべての個人が自立しており、すべての集団が自由に組み込むことができ、それら(個人と集団)が対等である社会を指し示している。


なるほど、確かにこれは現代的状況かもしれない。最近はやりのTwitterやスマートフォンは、まさにそれを具現化したものだ。この本自体2004年に出版されたのは少し驚きだが、彼の時代認識は、戸惑ってしまうほど「正論」である。私は「そうだからこそ、(大文字の)建築は無効なのではないか」と考えたが、彼は「ならばこうだ」と建築的な解を示そうとする。

彼が説明する「ディスクリートでない社会」については以下のように書かれている。


「ある点Xを取り出そうとしても、その点だけを取り出すことはできず、必ずその周りの近傍が一緒にくっついていきてしまう」


私は、この状態が「健康的」であると考えている。確かに現代的状況には適応できないかもしれない。しかし、やはり建築は古典的な手法である。こんなに時代が変化しても、建築は薄のろく、いつまでも大きい。工法は変化しても基本的な構造は変わらず、空飛ぶ建築は現れそうにない。

私はむしろ、そのギャップが重要であると思う。その間隙にこそ、未知の現象が含まれており、多様性を感じる。

風の小屋は、それ自体が何かを果たすのではない。そこ建築がそこに置かれることによって、風の道は、物理的には遮られる。しかし、それによって風たちも、自分たちの道を知るのではないか。カーンが「光」に対しそう考えたかのように。

原氏もきっとそうなのだろう。彼は「理論を論証するために建築を作っている面がある」と発言していたが、しかし、モンテビデオの地で実際に構築物を建てた際、多くの人が無為根拠に関心を持ってくれたという。論理的な素晴らしさではなく、日本の建築家が何か変なことやっていると、多分そんな感じで。原氏自身、多分そんな建築的な祝祭性を知っているのだろうな。

この本を読むと、彼が西沢立衛氏の「森山邸」を称賛していたことが理解できる。個人的にあの住宅は好きではないが、論理的には評価できるようになった。それは「理論」というものの素晴らしさである。

しかし原氏の試みも、あくまでワークショップレベルのものである。現実社会には、まだまだ受け入れられないような気がする。多分、そこに現代的な問題がある。

君が君であるために

2010年12月24日 23:08

普段は残業が当たり前の設計部だが、クリスマスとなれば、やはりそわそわした雰囲気がオフィス内に漂う。早く会社を出ようとせっせと仕事をこなす者、特別な用はないので、むしろゆっくり仕事を続ける者、まぁ様々である。

私は自分の状況を他人と比較し評価しない。だから、周囲がクリスマスをどう過ごそうと関係ない。ただ、自分がどうであるかだけが問題だ。

しかし私は、もし自分が恋愛問題で悶々としていたら、さぞ仕事に集中できないだろうと感じた。彼女は何をしてくれるかではなく、その存在そのもので感謝すべきなのである。

この一年、どれ程「恋人」らしいことをしたかわからないが、まず、その存在に、切に感謝したクリスマスだった。


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