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建築家、或いは人としての優劣

2010年11月30日 22:57

会社で不条理を感じたり、やるせない気持ちになった時は、その感情をブログに書くようにしている。しかし、その感情を言葉に変換していくうちに、次第に自分の意識は客観化され、書き終わる頃にはすっきりしていることが多い。

特に平日はipodにて文章を書くので、否応なく時間がかかる。

文章においては、意志と表現には、時間的にも感情的にも差異が生じる。構造主義によって解体の標的になったエクリチュールとは、そんなとこに要因があったかのように思う。

しかし現代は、その時間的差異を許さない。GoogleのCMよろしく、物的、機能的に豊かになった「我々」にとっては、もはやその低俗的価値までの到達を容易にすることくらいしか、やることはないかのようだ。

話は変わるが、本日早朝ランニングの最中、今日で11月が終わることに気付く。あと1ヶ月でまた1年が終わる。

この1年、私は何をやり遂げただろうか。事実上の設計者1年目であった今年、それはそれは膨大な経験値とかけがえのない瞬間に幾度となく出会ったが、しかしひとりの人間に、与えられた時間はさほど多くはないように感じた。

話は変わるが、先日某有名建築家と酒を交わす機会があった。その話や雰囲気は、実に素晴らしいものであったが、作っている建築に、何か優劣のようなものは感じなかった。新建築に載るような話題作も、誰も眼に止めないようなただの箱も、そこに人の想いがこもっているなら、それらの建築に優劣はない。

しかしその建築家と「我々」の優劣は、どれだけ良い顔で笑うことができるか、という点に明白に出ていた。完全に「我々」は負けていた。

時間的に計量可能な価値観も、社会的な名誉も、その底無しに明るい笑いの前には、全くもって無意味である。

言っとくが、この一年、結構笑えてるよ。
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御迷惑お掛け致します

2010年11月29日 23:04

午後、上司と意見が食い違う。なんてことはない、単に社内間のコミュニケーションの取り方の差異についてだ。

要約すると、お前はもう少しでしゃばれ、ということだ。これは中学生の頃から言われてきた。

確かに私は、他人とのコミュニティのなかでではなく、あくまで自分の中で、内在的に存在価値を高めることに精力を注ぐ。その結果できたコミュニティの方が、結果的に強硬だからだ。

しかし内田さんの本を読み、それは至極現代的な傾向であると知る。もちろん、昔からそういう人はたくさんいただろうが、相対的にみれば現代的だ、ということだ。

これは私自身の性質なので、もはや抜本的な解決は望んでいない。この論理が完全に拒絶されるなら、私はその世界から離脱しなければならない。その覚悟なら、大学時代にこれでもかと誓ったはずだ。

・・しかし、ふと考えてみると、今私と交信がある人たちは、私のお節介によって関係づけられたように思う。

そりゃ、そうだな。大事に大事に育てられた女性を、こんな男が「ずっと一緒にいよう」と迫るのであるから、それは迷惑以外の何ものでもない。

人に何かを理解して欲しいと語りかける時、やはり勇気がいる。そういう意味では、私は単に傷付きたくないだけなのかもしれない。しかし、事前の過程がどうあれ、結論がどうあれ、自分の意志を伝え続けなければならない今、自分の不甲斐なさがハッキリ見えて心地良い。

日々、人間としての勝負である。

身体の快楽

2010年11月28日 18:08

こんなタイトルのブログを以前に書いているかもしれないが、だいたい考えることなんて毎日変わるわけではない。いや、日常的に、瞬間的に、自分では把握できないレベルで思考は変化しているに違いないが、それを言語化するうえでは、どうしての同じ表現が付きまとう。まぁ、その点を洞察する気は、今はないですが・・・。

先日、所要にて国分寺へ。時間があったので、駅ビル8階(だったかな)の本屋に足を運ぶ。最近視力の低下と疲労にて、本棚は私の前で幻想的に(?)ぼやけていた。小説批評だったか、そんなタイトルの棚に、三島由紀夫特集が組まれていた。没後40年を記念し、いくらか三島についての本が出版され、彼自身の小説も売れているらしい。そのコーナーに置かれた新刊を、ひとつひとつめくっていくが、全くもって買う気が起きない。内容は「三島由紀夫とは何だったのか?」「あの日の出来事は、日本のどのような意味があるのか?」など、以前私が好きだったタイトルばかり、しかしこういった論考は最近私の興味を惹かない。正直、頭でっかちの批評家が書いた文章のような気がして敬遠してしまう(まぁそうではない方もたくさんおられるとは思いますが・・・)。

それよりも、私は最近身体を良く動かしている。早朝のランニングは、2日行い1日休むペース。腕立て、腹筋はそれぞれ1階ずつ階数を増やしており、1日行っては2日休めるというインターバルを、最近は守れている。正直設計者の勤務時間を勘案すると、なかなか身体的にキツイ日もあるが、多少身体が変調をきたしても、まぁ強引に続けるようにしている。

身体を動かしていると、彼ら批評者より、むしろ三島由紀夫のことが理解できるような錯覚を覚える。身体を動かすことは、それ自体が哲学である。

例えば、筋トレをする際、現在腕立ては72回を一度に行うが、その行為のなかで、72回分の腕立て効果があるわけでは(おそらく)ない。やはり人間、無意識に力を入れるところと貫くところを判別しているし、何より毎回同じコンディションであるわけではないから。しかし、72、73、74・・・と回数を積んでいく時に、50回、60回腕立てすることは実にたやすいことに感じる。しかしこれが突如、腕立て回数を50回、60回に減らすと、その回数を行うことは相当な筋肉的苦痛を伴うようになる。つまり、目標値を設定することにより、それ以前の段階は「まだ余力がある」という意識のもとおこなわれるから、同じ回数筋トレをしていても、全くもって苦痛を伴わない。目標値を設定することで、その目標値以上に、むしろそれ以前の状態をクリアする、というプロセスを無意識のうちに踏んでいるように感じるのである。

しかしこの哲学を維持するためには、常に目標値を増やしていかねばならない。現在の腕立て72回をクリアできるのは、73、74回と回数を増やしていったときのみである。だから、常に継続し、苦痛を耐えるという忍耐によってのみ、物事は成就される。

この論理の主要な点はこうだ。つまり、どんなに優秀な能力を持った人でも、常に努力し、向上の精神のもと忍耐することによってのみ、その優秀さが保たれる。故に、もし「自分が優秀である」と誇らしげに笑みを浮かべる人がいたら、可哀想であると同情してやればよいのだ。

・・・なんてことを思った。

風の小屋―7

2010年11月28日 18:07

実際の敷地を素直に見つめなおし、建物の規模を縮小する。軸線をぶらす案は自分のなかで破棄し、建物の輪郭を成形に戻す。正方形になった瞬間、素直に風がまわり始めた。建築はその道を促す、道しるべとして機能すべきだ。こういうようなプロセスを、観念ではなく実際の物体としての建築として経験するにつれ、偉大な建築家がなぜ偉大なのか気付く時がある。カーンの設計手法も、論理ではなく感覚として「なるほど」と感嘆することがしばしばある。

以下プラン推移

101123-1.jpg
1案

101123-2.jpg
2案

101128.jpg
今回案

模型を作成すると、どうやら床・壁・天井全て白で塗装したほうがよい感じがした。その方が風が入りやすい。篠原一男とか伊東豊雄の白い時代の作品を見ると、壁・天井は白く、周り縁、幅木はなく、床は白いカーペット敷きのものが多い。現実的に考えて、床は汚れるから壁・天井の扱いとは異なるのだろうが、今回計画の場合、空間はあくまで非日常の場であるので、内装全てを統一しても良い気がした。まぁ最終的には作りながら決定していくであろう。

11月26日(金)

2010年11月26日 23:11

午前、コンペ打合わせ。皆、これでもかとイメージを膨らませる。最も若手の私が、一番落ち着いた案だった。私は、建築における規律を重んじる。というか、それを探すことが、デザインという行為である。表現とはしゃべることより、むしろ聞くことにあると思う。

昼過ぎ、建物建学のため西東京へ。最近話題の建築の見学会。この建築は、しゃべりすぎな感があった。

夜、その建築の担当者と飲み会。建築見学より、こっちの方がよっぽど面白かった。

深夜、終電にて帰る。

昭和85年11月25日

2010年11月25日 22:50

早朝、ランニング。4時間しか睡眠をとっていなかったため、身体はダルイ。しかし走り始めれば、実に爽快そのものだった。最近、身体が慣れてきた。

午前、前日の定例の打合わせ記録を書く。専門的な内容も、最近理解できるようになってきた。

午前、コンペ案を作成する。コンペ要項に忠実に、自分の好みに正直に、ひたすら案を練続ける。今回案は、捨て案になる可能性が高い。なので、実務ではできない憂さ晴らしを紙の上で行う。こんな時、結局は私の世界の、私小説の中に出てくる建物のような認識を抱く。レム・コールハースの建築のように。明日午前、上司たちを前にプレゼン。自分に対し素直になって作った作品ならば、咎められる怖さは微塵もない。

夕方、スタディ終了。他の仕事に取りかかる。

夜、机上の分厚い「Novel」は、私を安心させる。

夜、眼が辛い。今日は筋トレなしで、明日はランニングなし。

風の小屋は、やはり軸線を振らさない方向で検討中。何かおかしいと思ったものは、やはりどこかがおかしい。

本日、数分茶室について調べる。やはり外部と接続する窓はない。あると、空間が壊れてしまうからであろう。茶室は、にじり口をくぐった瞬間から、異世界に入り込んだという認識の上に成り立つ。風の小屋は、風の棲まう茶室だ。

夜、昭和85年を想う。いや、昭和が終わってから40年というべきか・・

深淵なる思慮と無根拠の錯綜、或いはその弁証法の先に

2010年11月24日 23:20

建築の専門でない人ー例えば客先、友人、家族ーが建築の専門家である我々に建物の構想を語る際、あたかも彼等は、彼等のイメージが専門家である我々には手に取るように把握しているように誤認し、専門家である我々は、彼等のいだくイメージ以上のものを具現化してくれるかのように錯覚する。

客先の要求を満たさなければ、我々は「施主」であるから、いうことを聞いてくれないとは何事だ、と怒られ、客先の要求をそのまま具現化すれば、我々は「素人」なのだから、専門的な視点でもっといい案を検討してくれなければ困る、と怒られる。

建築において、素人と専門家の立場は、一瞬にして入れ替わる。

以前、経済の本を読んでいて、なぜ、経済のシステムが複雑であるということについて、複雑化することによって、素人性の介入を避けるとの見解があった。

なるほど、素人性を排除することで、専門家の立場は、神聖化される。

我々の日常的に不可欠なもので、かつ素人性を排除し専門家の領域を神聖化したもの、例えば医学、法学・・

これらは職能は、社会的に専売特許となる。優位な立場に置かれよう。

我々建築家は、如何に専門的な視点でデザインしたとしても、施主が「カッコ悪い」と一言述べただけで、その神聖領域は一瞬にして瓦解する。

それは建築家の性であると同時に、喜びでもある。建築家が大した報酬もなく膨大な時間を労働に当てるのは、そこに素人性が介在しているからに違いない。我々は専門家であると同時に素人であるため、その両者として労働するのだ。

私は、優れた表現者は、優れた専門家であり、優れた素人であるのだと思う。膨大や理論と、無根拠な期待、その両者によって優れた建築は生まれる。

永遠たる思考と分析の果に完成した建築が、完成した瞬間に「失敗した!」と笑い飛ばせたとき、きっと澄んだ世界が目の前に広がっているに違いない。広大で、地平線の先も想像できないような・・

風の小屋―6

2010年11月23日 22:16

本日、敷地現調にて、やはり現設計案では難があることが判明。現設計で進めるには、庭にあるアルミ製の庇を撤去しなければならない。その庇は雨の日に洗濯物を干すためにものだったのだが、現在姉と弟は家を出ており、私自身雨の日にまで外に干さねばならない洗濯物はない。故に撤去してもよいものなのだが、それは私としてはあまり喜ばしいことではない。何か建物を建てる時に、従前のものが破壊されるのは建築の性というものだが、しかし、この建築はそういう建築ではない。

・・・ということで、設計変更

東西側が厳しいので、東西側を柱位置まで外壁を下げ、南東部分は多少余裕があるので、外側に出す。すると、台形の歪な形が生まれた。そうなってしまうと、もともとのプランはあまり有効ではない。これでは「風」が入ってきてくれない。故にプランの変更が生じた。

方眼紙の上に書きなぐっていくと、懐かしい形が出てきた。学生の頃、軸線をずらし空間を歪ませることで、そこに意味もわからぬ「建築的な希望」を見ていた。今回計画で、外壁のひとつの軸がずらされたことで、その外壁線に沿った軸線が平面の上に重なった。

しかしこれは、風が入ってきてくれそうな気がする。以前、藤井博巳氏の建築に興味があった。あの建築にも風が通り抜けているように思えた。そして軸線がぶらされたり、幾何学的なずれは、日本の数寄屋建築や茶室に通ずるものがあると思った。それによって、空間に異質な緊張感とぶれを挿入し、空間を相対化し、奥行きを持たせているのだと。つまり、風が入ってくるのではないかと・・・

以下、簡易ダイアグラム

101123-1.jpg
現設計案

101123-2.jpg
設計変更案

101123-3.jpg
重ね合わせ

まだまだスタディが必要であるが、とにかく従来の案は捨て、設計変更を行わなければならないのは事実。明日からの通勤電車での暇つぶしができた。

11月20日(月)

2010年11月22日 23:05

早朝、ランニング。何度行っても、朝起きるという気だるさからは逃れられない。外は霧に包まれ、深淵なる森に迷い込んだかの様であった。

午前、バタバタと時間が過ぎる。髪を切り過ぎた件で、皆から遊ばれる。あまり気にせず。

午後、身体が怠くなる。走った日は時々こうなる。となりの人の風邪が移ったか。

夜、普段話しかけられない犬猿の方に「忘年会いつになった?」と聞かれる。とっくにメールで流した筈だと思ってたら「なんか忘年会の誘いが多くてさ、早く予定決めてくれないと困る」とせっつかれる。私にとって、それは羨ましい対象にはならない。そんなギャップは日常的にかんじる。

夜、『SMLXL』をデスクの上に置く。本は、その佇まいで語ってくれる。学生時代の葛藤が詰まった本。

夜、『SMLXL』の裏表紙を見て、再び感嘆する。

This massive book is a novel about Architecture,conceived by  Rem koolhaas ーauthor of Delirious New York.

彼は、やはり本質的に作家なのだ。しかしそれは建築家でないことを意味しない。

チャールズ・イームズが述べたように、建築家の役割は構成を与えることだ。

ル・コルビュジエが述べたように、建築家の役割は秩序を与えることだ。

明日、また走る予定。

風の小屋―5

2010年11月21日 20:55

本日、2.5mの単管パイプを購入する。これが建築の構造となる。わずか1000円強、家全体でも大して金はかからない。もしこれで本当に「家」が作れたなら、それは革命的なことである。低コストで家を作れることがではなく、それが「家」と認識されることが、である。

そのためにも、これは私にとっての家、ではなく、誰もが「家」と感じられ、心地よいものでなければならない。革命は、どれだけの賛同票を得られるかにかかっている。単に異質なハプニングを起こしただけでは、革命とは言わない。

だからこの家も、そういうものでありたい。そういうことは、実際に家を作ってみると実によくわかるのである。

それから今日買った1000円ちょっとの単管パイプ、これが構造になると話せば、家族は興味がしんしんである。

建築は大きい。とても大きい。

それゆえに祝祭性を伴う。これはなかなかの快楽なのである。



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