零度

2010年08月31日 00:40

辞める。てか、ずっといられないこんな会社。自分が腐っていく気がする。尊敬する上司がいるなか悪いけど・・

今一緒に仕事をしてる上司は最悪だ。二度と顔を合わしたくない。これから会社に行くのがほんと憂鬱になった。

多くのサラリーマンはこんな憂鬱を日々抱えているのだろうか。何より、しっかり辞めて、自分が成長できる(或いはそう思える)人生を歩みたい。

昼休みは机に顔を伏せて寝た。いや本当に寝ていたわけではない。涙と鼻水で顔を上げられなかったのだ。

午後は死ぬ程働いた。体が限界に達し、地面に倒れるのを心待ちにしていた。

こんな感情を持ったことで、私にはひとつの道が見え始めた。

ただ、彼女のことを第一に考えることは忘れちゃいけない。
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厳格たる風景

2010年08月28日 20:59

あなたは、何かしらの衝動を覚えた時、その時の「背景」を正確に覚えているだろうか?

多くの場合、答えは「No」だと思われる。我々が記憶する風景は、常に再構成されるものであるし、さらにその風景は主観的に記憶されたものでしかない。

しかし、私にはある。いや、この間現れた。

この小説に対する感想を、どのように記せばよいか、ここ一週間考えていた。

『憂国』 著:三島由紀夫

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二二六事件を舞台に、人間の究極的な生とエロス、その両者を際限なく高め、ある臨界点まで昇天していく様を描いている。時間にしたら、ほぼ数時間のとある夜の出来事。これほど恐ろしく、また吸いこまれた小説もそうはない。三島自身、もし自分の代表作が何かと聞かれたら「憂国」と答えると述べたらしい。確かにこの小説は、彼の(あるいは人間の)もっとも美しい部分と、もっとも醜い部分が同位として存在し、まさに近代の二分法を「とある瞬間」を照準に定め、超克していく。いや、もはや論理が効かない地平まで突き抜けていく。そんな小説である。

この小説をどう説明するか、それは全く想像がつかないし、もし私が試みたとしても如何わしいものになることは目に見えている。だから、この書評に関しては、とりあえず一週間置いてみた。私のなかで、何かもっと明確な論理となって現れてくることを期待したのである。

何日たっても、明確な論理が出てこない。出てきても、どこかの「三島由紀夫論」が顔を出すだけで、本質的な解が何も現れない。そんなことを想い一日一日が過ぎていくなかで、私はふと気付いた。解は出てこない、しかし、あの情景がありありと私の前に再現されている。あの畳の湿気、玄関のほこり、洋服箪笥の匂い、全て小説内で表現されたものではないが、その小説の「背景」として私のなかで再構成された風景が、まだ夢から覚めた後、それが現実かどうか判別できないときのように、私の肌に、実感としてまとわりついている。

彼らの目から見えていた情景が、あたかも私のなかに存在するかのようである。

それが何を意味するのか、それはまだ分からない。ただ、私はあの小説を読むことを、おそらく他人には勧めないだろう。

ちいさなちいさな建築の夢

2010年08月28日 00:03

終電に間に合わなかった。それでも仕事は終わらない。ただ、そんな日は気分は晴れてる。飲み会でのストレスに比すれば全く良い。経験が積めるから。

一建士が終わったら、しばらく仕事に専念したい。

「◯◯事務所に2年勤務の後・・」だと、あたかも社会的な機能不全者に思われるが「◯◯事務所に5年勤務の後・・」だと、しっかりとしたステップを踏んだように思われる・・様な気がする。・・って何考えてるんだ(笑)

我が家の裏のドブが埋まり、同線が敷地内を突き抜ける。その上にイエを浮かす。家族を説得させるために、我が家全体の模型を作ろう。世田谷村の模型のように、建築の夢を語るような・・

1坪だから、原寸模型が作れるな(笑)

続・私の建築

2010年08月26日 23:27

上司と同じ様に残業し、上司と同じ様に残業食を食べ、上司と同じ様な仕事の仕方で、上司の言い分に同調すると、上司はやたら機嫌が良い。

私は、自分の価値観が正しいとは思わない。だから、周囲の人に自分と同じように振舞ってほしいとは思わない。嫌悪感すら感じる。

とはいえ、大多数の人は私と価値観を共有しえないから、私は基本的に孤独だ。

だからこそ、建築は完璧でなければならない。

Y君は、この意見に賛同しないかもしれない。学生時代より、そこは私たちの境界線ではないかと考えていた。

完璧な建築など存在しない。いや、存在するのだ・・私の心のなかに。建築が完璧であるためには、否応なくそれは内在的になる。だから「実体としての建築」は私の所有物であり、外在的には実体としては成立しえず「論理としての建築」が生じる。歴史であり、文学であり、哲学である。

戦後にモダニズム住宅を理想とするのは、それが「実体としての建築」であり「論理としての建築」であるから、その二元論が成立しえるから。

これを自分の将来に具現化すると、要は自分の「言語」を共有できる範囲で建築を作り、歴史家の研究をする。これは機能的、かつ演繹的に導き出された結論だ。

ほら、私のなかでは二元論は成立しえる。そして、やがて崩壊する。複雑に、カランカランと心地良い音を奏でながら・・

それが「生きる」ことのなかに神が宿した、幸福である。

イライラの横須賀線

2010年08月26日 01:42

本格的に視力が落ちている。かなり近づいて見ないと、モノが判別できない。マズイなぁほんと・・

なんか一日一日が長い。

今日はズバッと製図やらんと。

Floating Tea House に片流れ屋根を設け、黒焼きした木材を外壁に用いる。なかなかいいじゃないか。

これが恋というものか、彼女以外の女性の顔は、ただの造形物にしかみえない。

久々に丸山先生の『生きのびるためのコーリン・ロウ』を聴く。久々に建築の話をきいた。 

私の建築

2010年08月25日 00:31

総合資格の課題を見て、試験合格の解答ではなく、本当に美しい建築として美術館を作るなら、私はいったいどのようなものを作るかを、紙面上で想像してみる。いくつか案が浮かぶ。それらは単純に、心地よい建築である。夏には涼やかに、冬には暖かく迎えてくれる建築、とても気持ちが良い建築。

そう想像する自分に気づき、やはり自分は建築(あるいは建築設計)が好きなのだと改めて気付く。しかし、そのプランを「他人」にプレゼンする気には全くなれない。自分の建築的理想を、他人に納得してもらいたいという願望が、遂に私の中から消えてしまったように、最近感じる。

こういっては何だが、所詮建築意匠はあくまでマスターベーションである。もちろん、厳密にはそうでないであろう。真っ赤な建築を建てれば、多くの人は不快に感じるであろう。しかし「良い!」と誰しもが(大多数でもよいが)評価してくれるような建築(意匠)はない。そう、最近明確に感じる。

それがいい悪いではない。定義通りに考えれば、今はそういう時代だ。

ただこれは、私の内面性に大きく依存する。私にとって建築は、あくまで私のものだ。私がいて、建築をやっているのではない。建築があることによって、今の私が存在する。だから、私にとって建築は、社会的主張ではなく、ビジネスでもない。私自身である。

以前、就活中、大学内にてフォリオ会というものがあった。組織設計の先輩たちが、私たちのプレゼンを見てくれるというもの。そこで私は、まったく人がいない、廃墟のようなパースを出した。彼らは「なぜ人がいないの?」と疑問がったが、私にはそれは無用だった。

例えばあなたは、素敵な奥さんがいて、その奥さんがたくさんの男性と夜を共にすることをわざわざ想像するだろうか?しないであろう。それと同じだ。私にとって建築は、他人のものではない。あくまで私のものだ。

しかし、建築はマスターベーションではない。

だから私は、自分自身を内面的に磨きたいと感じる。それに同調してくれる人がいるなら、は私の建築の内部に存在するであろう。

今は思うのは、実際に建築を作りたい。家の庭に一坪の住まいを建てる、それが今日拒絶感に見舞われた私の心を支えている。

そして、私の建築の内部に存在する友人や彼女にも・・・

Do you really think so?

2010年08月23日 00:25

今日からドッと製図課題が出る。また早朝出勤モードだな(汗)ランニングは平日1回、週末2回かなぁ。

この間、夕飯を食べ損ねて地元に着いたので、いつものように駅前のパン屋でパンを買う!(山崎まさよし風)そしたらおばさんが「あんぱん買うの?珍しいわね」と微笑みながら私に言った。珍しい?・・ってそんなにこのパン屋に来てないぞ俺。覚えてたんか?

この町で、20年以上住み、未だに自分の町にはならないこの町で、知り合いがひとり増えたような感じがして、少し嬉しかった。

帰りの電車内、目の前に外国人男女ふたりが話している。男は色々な国で生活したことがあるらしい。男は言う。

「あの国では一日7時間だけ働く。4時には仕事を終えてビーチでくつろぐ。そのあと家に帰り、夕飯を食べる。so ideal life!」

そうかもしれないが・・どうかな

パノプティコン

2010年08月21日 14:53

本屋に行くことを私は好む。建築だけでなく、いくつかのジャンルに足を運ぶ。しかし最近はあまり本を購入したいという衝動が起きない。もちろん製図試験前だというのもある、視力が落ちて、進んで読書をする気にならないこともある。ただ、学生の頃は、御茶ノ水の書泉グランデを、5階から全ての本棚を物色しながら、1フロアごとに降りてくるという、今では考えられないようなことをしていた。今ではそのような本に対する欲情がない。

なぜかといろいろ考えてみると、以前は様々な学問が自分の糧になり自分の成長につながると考えていた。だから、建築以外の分野にも積極的に手を伸ばした。しかし現在は、限られた時間のなかで、それでも自分の内在的な成長につながるような本を探す。すると、結果的に本を手に取る機会が減っていく。さらには、週末は限られた自分だけの時間。普段頭をフル回転(というわけでもないが)しているから、心身ともに少し休ませたいと思う。すると、読書という目を凝らし、脳を活性化させる「運動」を、進んでする気にはならなくなってくるのである。

そういった倦怠感は就職が近づいた頃から感じていたが、今は如実に感じる。以前は宝箱に見えた本屋も、今では私とは無縁の情報箱のようになっている。私はこの哀しい現実について考えてみた。そして考えていくごとに、そこには(近代以後の?)社会的システムがあるようを発見した。

つまり、数百、数千の人が共同的に仕事するには、まずどのような手立てが必要か。広義に言えば、社会的な教養・習慣を身につけることにある。植民地政策でも重要視されたプログラムである。ただもっと身近なこととして、つまり、私自身の日常の経験からすると、以下のようなことがいえそうである。

よくよく考えてみると、身体は発達しきり、自立的にさまざまなことを思考・選択できる成人が、みなそろって同じようなスーツを着て、満員電車で窒息しそうになりながら、毎日同じ時刻にひとつのビルディングの中に吸い込まれ、夕方、或いは日付が変わってしまう頃まで働くというのは、どうも不可思議なことである。どこでも脱線する要素はある(実際脱線する人が多々いるが・・・)。大抵の場合が企業の利益のために働くので、仕事が自分の快楽に直接つながることは、相対的に少ない。だから、多くの人が日々「ストレス」を抱えながら働くことになる。つまり、平日の時間をほぼ掌握され、さらにストレスまで抱えながらも、それでも日々出勤し続けるということは、極めて異常なことともとれる(事実、海外から見れば、日本のサラリーマンはそのように見られる節があるらしい)。

それを可能にする要因は、とりあえず給料であろう。資本主義の社会では、金がなければ生活できない。しかしそれは全ての理由にはならない。なぜなら、社員が一斉にボイコットしてしまえば、会社(というか経営者)自身窮地に立たされるからである。結局のところ卵が先か鶏が先かの話でしかない(経済とは常に相対的なものなのだ)。

もちろん働くことが楽しいという人もいるであろう。私自身それは全く感じないわけではない。ただし、それはある一部の人と捉える方が自然である。みながみな、ウキウキと会社に出勤しているなど、だれも思ってはいない。

もしあなたがその土地の統治者で、資本を増加するために何千人も会社に勤めさせなければならないとすれば、どのような政策を打つか。私の答えはこうだ。


会社に行きたくさせるのではなく、会社以外にいたいと思わないようにさせる。


それらしく言えば逆転の発想だ。ドラマでもよくあるセリフだが、課長が自分のデスクチェアに座りながら「ここが一番落ち着く」ということ。会社以外(多くは家)にいたくないと思わせることで、つまり、各々の居場所をできる限り会社に限定させることで、おのずと日々出社するようになる。問はさらに続く。では、具体的に企業は、どのような政策を打つべきか。

まずは拘束時間を延ばす。しかしこれが具体的に「何時まで」と決めない方がよい。明確に境界を設けると「それ以外の時間」が継続的に生じてしまう。「それ以外の時間」を消滅させるには、常に「働くべき時間」という認識を埋め込ませる必要がある。ではどうやって?それは上下関係を強要させることだ。実力主義の自由階級では、各々でスケジュールを立て、各々の時間を確保することができてしまう。しかし、上下関係のなかで仕事をさせれば、「仕事をしなければならない」という見えない強制力が働く。だから、早めに仕事が終わったところで、意識としては罪悪感が残る。なにせ上司はまだ働いているのだから。そういった不可視の強制力によって、我々は自分自身の時間が喪失される。いわば、会社内外問わず、パノプティコンが働くわけである。

パノプティコンの優れた(?)点は、物理的な時空だけでなく、その人から関心・気力を奪うことにある。その企業以外のことに興味を持つことを会社は忌避する。会社のノウハウだけ盗まれ、颯爽と退社されてはたまったものではない。優れた監視システムによってわれわれは時間を奪われ、それ以外に対する興味・関心をも奪われる。他の関心を持つ者は企業の反逆者である。そしてその者には、それまた不可視の刑罰が処される。

「なぁそう力むな。よくよく考えてみろ。脱サラして何がある。せっかくお前はこれまで我が社に従事してきたではないか。これから徐々に、確実に給料は上がっていくのだぞ。それがお前退社してみろ。一気に無一文だ。悪いこと言わない、よーく考えてみろ。・・・な、お前もそう思うだろ。おれだってお前みたいに悩みながら今までやってきたんだ。みんなそうやって大人になっていくんだよ。わかるだろ。まぁ一杯いくか」

パノプティコンが成立するためには、それが孤島である必要がある。パノプティコンは周囲を壁で囲まれていなければ成立しない。企業はその体制をもつ。まずは住居と職場の分離だ。その間を、多くの囚人者とともに列車に乗せることで、自分が社会的マジョリティであるという安心感を植え付ける。分離されることに、誰も(不満は持っても)疑問は持たない。当然のごとく、それは近代の社会システムである。彼らはさらに囁くであろう。

「まぁ労働は何かと疲れるからな。そりゃ男の方が向いている。力仕事も多いし、労働時間も長いしな。なにせ女性には出産・子育てがある。そりゃ男には無理だからね。なんだかんだいったって、この区分けが最も無難だよな。」

多くが実存主義者である女性には、パノプティコンは効かない。パノプティコンはあくまで、幻想のなかに成立する。故に、女性の社会進出を彼らは好まないであろう。孤島すら消滅してしまう。

こうして、会社以外に居場所を失った囚人は、牢獄行きの列車に引き込まれていく。日々同じ景色、同じ音、同じ空気のなか、彼らは操り人形のように運ばれていく。

・・・はて、そういえば彼らに顔はあったかな?

(この物語はほぼフィクションであり、私自身とはほぼ関係ございません。)

とにかく綴れ!

2010年08月20日 20:57

一週間が終わる。明日は図書館で製図の勉強をしよ。それから、洋服の青山とユニクロに行って服の補充。

朝走ると、色々な付着物がリセットされる気がする。

サラリーマンとして重要なのは、あまり深く考えすぎないことだ。多くの人はストレスを抱えている。常にイライラしているようなもんだ。だから、不
条理なことで怒られることは必然だ。

26歳の平均貯金額はいくらだろうか?

最近イライラが、精神的な抽象物ではなく、実体的な重量をもって私にもたれ掛かる。この間なんて、そのせいで夜眠れなかった。

日焼跡が少しずつ薄れていく。記憶だってきっと、知らず知らずのうちに消えて行くのだろう。

最近石山修武の世田谷日記が面白い。特に「21時に世田谷村に帰る」というフレーズ。

あしたもまた走ろう

2010年08月19日 22:23

今日はイライラしてない。実際は、あまり深く考えなくていいんだろうな・・

しかし、いざサラリーマンになってみると、まぁ楽なもんだ。この間まで、自分は24までの命だと思ってたのに(笑)

Google Sketch Upで何かできるかな?

安住アナのラジオが面白くてたまらん。

早朝ランニングは、色々な相乗効果を生む。ただ(無料)の贅沢

文章も書き続けよう。


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