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ざわざわを企図した住宅、ざわざわしてしまった住宅たち

2009年10月31日 22:13

本日は10月31日、私が今の部署に配属され1カ月、長いような、早かったような・・・とりあえず、とてもとても密度が濃い1カ月だった。

そんな記念すべき日に、私は神保町へ向かった。1カ月頑張ったぞ自分、そして来月からは残業代が入るぞ俺、ということで、晴れて『Le Corbusier le Grande』を購入した。とはいえ大著ゆえにお持ち帰りできなかったので、配送してもらった。明日の午前中我が家にやってくる。ワクワク。

ただ今日はそれだけではなく、素敵な本を二冊購入した。

・『世界建築設計図集 26 藤井博巳 宮田邸』 \500(古本)
・『藤森照信の原・現代住宅再見』 著:藤森照信 \800(古本)

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両者ともに学生時代に読んだ本であるが、南洋堂で安く売っていたので購入。それなりに書評をしてみる。

まず藤井博巳大建築家の宮田邸に関しての本であるが、私はこの宮田邸自体、もちろん名作と言わねばならない作品で、個人的に、ある時期刺激を受けていたのだが、それ同等に、この本の解説文「透明なゲーム機械」(文:八束はじめ)への称賛が強い。

八束さんが書かれた内容は、簡単に言うとボードリヤールが言ったような現代におけるシュミラークルの問題を、透明化していくための(終わりが想定されない)ゲームとしての建築、といったような話。学生時代によんで非常に感銘を受けた。何か、いろいろな物事がかなりすっきり整理された気がして、爽快になった記憶がある。

藤井さんの作品のすごさが、近代の副作用として大衆化したシュミラークルやドグマを、磯崎さんみたいにイデオロギー的に解体したのではなく、空間として、建築(それは「近代建築」としての意味合いが強い)として超越して見せた点にある(と私は思っている)。カッコ書きで「私は思っている」と書かなければならないところは、たとえば磯崎さんのポストモダン論は「なるほど」(とまではいかなくとも)納得できるのだが、藤井さんはそれを空間的に行うので、言葉にできない。だから、空間を感じるしかない。

私は藤井さんの作品に、非常に透明で、近代の残余物を相対化してくれるような力を感じた。だからこのように書いているというだけの話なのだ。以前はこの建築もイデオロギー的に、あるいはその超克として捉えていたが、今それについて語るのなら「ざわざわを企図した建築」と言いたい。彼の建築は、近代が止揚を試み(そして虚構でしかなかった)もろもろの言説を打ち破ってくれるわけだが、私なりに言うと、結局どんなものでも常に多様化していくベクトルがあるわけで、それを「建築」という固定化された物質でなんとか表現しようとした姿であると考えている。だから、彼の建築を見ているといろいろなことを思い、風を感じる。錯綜された風景のなかを、ツーっと通り抜ける風を感じるのだ。

だけど今回再び読んでみて、新しい視点を獲得している自分に気付いた。この住宅の施工難度である。はっきりいって納まりとかそういう次元の話ではない。いってみればハンドメイド建築だ。だから、この超クールな建築を作るのに、何人もの人(かはわからないけど)が頭を悩ませ、実際に手を動かし試行錯誤していたに違いない。言説としてこの建築を見るなら、いかにもカッコイイ建築だが、実際の建築現場ではいろいろな葛藤があったに違いない。つまり、現実的にもざわざわしていたのだ。

もうひとつは藤森さんの本。この本も大学の図書館で良く眺めたが、この本の好きなところは、カッコよくない写真が使われているところである。普通建築家は、自分の思想を表現するためにカッコイイ写真を使う。しかしこの本では、居間には本が積み重なり、壁には子供が書いたであろうお父さんの似顔絵があり、台所は散らかしてあり、冷蔵庫には何かの電話番号まで張ってある。つまり、ざわざわした風景を映し出している。

当時この本を読んでいて、なんとも藤森さんらしい本だなぁと感じていたのだが、少し作家論に寄り過ぎているきらいがあるにしても、近代が目指した麗句的な表現ではなく、そこにあるもの(生活といってもいい)を記述し、近代の神話を相対化する効果が、この本(というか藤森さんの言説)にはあるように思えた。「美しく」作られた住宅の、ざわざわしていく様を、この本を如実に語ってくれる。

本を購入し、マックでコーヒーをすすりながらそんなことを思っていたら、彼女に呼び出され大学に行くことになった。2日連続の論文お手伝い。なかなかハードではあるが、ベクターの使い方も少し覚え、私としては有意義な一日であった。


追伸(Yくんへ)

ホームページ見ました。何か「favorite」の一番上に自分がいるのは、なんとも恥ずかしいような場違いなような気がします。そして以前Yくんが自分のブログの中毒者がいないといったようなことを書いていましたが、その理由を私なりに考察しました(ちなみに私は中毒者ですが)。
Yくんのブログは、家で言えば「床の間」であると考えます。時の流れというか、それに相応するしつらえがあるように思うのです。床の間では(特に現代の場合)長居することはないように思います。何かの折に、ふと出会うような空間であると思うのです。それに対し、私のブログは地下室の書斎みたいなものです。世俗から逃避して、みんなの声が届かないところで、しめしめと好き勝手書いている場所なのです。だから、お互いのブログは、まったくもって性質が違うのかなと自分なりに思えました。
とはいえ、なんだかんだうれしかったですが・・・(笑)
Yくんのfavoriteを眺めていると、私が知っているもの知らないもの、関心のあるものまだそうでないもの、いろいろありますが、それも「ざわざわ」していていいですね。結局ざわざわなブログで今月を終えたいと思います(笑)
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弟に輝かしい未来あれ 

2009年10月31日 01:03

今日は某大学で研究のお手伝い。いろいろなことを思ったし、いろいろ書きたいこともあるのだけど、今日は疲れたので書かない(というか、書きたいことが多すぎて、ちょっと時間がかかりそうなので・・・)

明日は神保町で本屋めぐり。コルビュジエの本、買いたいんだけど買えるかなぁ・・・。もちろん買うのは私なのだけど、慎重というか優柔不断というか、なかなか決められないので・・・

そして最後に一言

弟に、輝かしい未来あれ!!

サラリーマンという逃げ道

2009年10月29日 22:56

本日は設計についての打ち合わせを行う。設計をやる上で、大学でも会社でも、どのような場でも同じことを思うのだが、私は「自分のセンスが優れていると思い、その感覚を疑わない人」を好きにならない。正直新入社員の身にもなってもらいたい。上司に「ここをこうやるとさ・・・ほら、いいデザインになっただろ?」なんて言われたら「あぁ、なるほどそうっすね!勉強になります!」としか言いようがない。

私はこういう状況に出会う度、いつも不安になる。カッコ悪いデザインになったからではない(私は自分のデザインセンスを信じていないわけではないが、それを人に押し付けることはしない)。そういう人と付き合っていかなければならないことに、憂鬱になるのである。

なんたって、サラリーマンだもんね。そりゃ、いろいろな人とうまく付き合わなければ(サラリーマン以外でもそうだろうけど)。けど、組織の設計者は、自分のデザインに自信を持っている人がやたら多い気がする。私はその理由を以下のように推測する。

組織の設計会社にいると、自分のデザインが通ることはなかなかない。まずはお施主の要望が第一であり、そのなかに特記事項としてコストがある。さらに、現場の人は面倒で危険な工事を進んでやろうとはしないし、設計者内でも、上に立つ人の意見が結局通るから、多くのサラリーマン設計者は、自分のデザインができない環境の中で、ほぼ一生を終える。

だから、彼らの多くは「俺はほんとはできるけど、俺のデザインセンスは優れているけど、だけどおいらはサラリーマン、そんなことはできないってもんなのさ」と、サラリーマンであることをいいことに、設計者として能力に逃げを打っている。

なんでもそうだが、自分のエネルギーを振り絞り、何かに向かって努力している人でなければ、どんな発言だって重みがない。自分の全力を出すこと。それは、目標を達成することよりも、むしろ達成できないことにおいて重要である。自分の限界を知り、他人の能力を知る。人は謙虚になる。そういう努力をしていない人は、自分の能力にやたら自信がありながら、自分の能力が評価されないことを他人の(あるいは環境の)せいにする。

こういう場合、後輩や部下は格好の餌食になる。彼ら(僕ら)は反抗しない(できない)。「さすがセンパイ!」と言うしかないのだ。

だけど、そういう経験もこうしてぼやくための(固く言えば私の哲学的考察のための)材料となる。そう思わなければ、やったられないっすよ正直。


追伸(Yくんへ)

なんか将来、一緒に住宅を建てられたらいいね。ふとそんなことを、最近思いました。

幸福な家 

2009年10月29日 00:47

今日は彼女と目黒でイタリアン。彼女と会うのは1カ月ぶりだが、それでも(一応)カップルとして成立していることは、はたして良いことなのかどうなのか・・・。でも、明日が仕事であろうが何だろうが、何にも代えがたい幸福な時間を過ごした。いつもの食事よりかなり高価だったが、私が会社で働いて稼いだ給料の意味は、このためにあるのかとも思う。

帰りの電車でipodで音楽を聴く。イヤホンの接触不良(イヤホンではなくipod自体の問題)により、左耳からしか音楽が聞こえない(2、3週間前からである)。しかし、イヤホンの挿入を半分くらいの深さにおさえると、両耳から聞こえる。だから私は常にイヤホンの差し込み深さを調整しながら音楽を聴くという、なんとも面倒くさいことをしている。

しかし、両耳からしっかり音が聞こえるときは、それがどんな音楽であろうと幸福に感じる。両耳から好きな音楽を聴けること、考えたらそれってすごいことだ。

このブログ内でも何度も述べたが、人間の持っている感覚の多くは相対的なものであると思う。普段正常に機能していると気付かないが、何か機能不全に陥ったとき初めて、そのものの価値を知る。だが、他との比較ではなく、それそのものの魅力による絶対的な幸福もある。それは、確かにあると私は信じている。

なかなか気がつかないけど、そんな幸福をしっかり見つめ、ひとつひとつかき集め、ひとつひとつ積み上げ、家を建てたい。私たちはきっと、そうした建設行為そのものを「人生」と呼ぶのであろう。


追伸(Yくんへ)

なんか交換日記みたいになってきたね。でも、仕事が忙しくなるほど、ブログを書きなくなるし読みたくなる気持ちはよくわかる。ブログ始めたころは、数か月で飽きるかと思っていたけど、全く逆でどんどんペースが上がっている(笑)こんどI研Iくんの結婚パーティがあるから、よかったらくれば?僕はあまりそういう場はなじめないけど、こんな私でも誘ってくれることに、最近は感謝の気持ちが沸いてくる。今週には堀部さんの本を会社の図書館に返す予定なのだけれど、買おうかどうか検討中。なんか、お互い接近し過ぎることが、それはそれが怖いことな気はするけど(笑)、それでお互い楽になる面があるなんて、人間って不思議なものですねほんと。

新宿-千葉

2009年10月27日 22:12

とりあえず購入し溜まっていた本を読み終えた(実際は私の本棚には、手がつけられていない本、手をつけたがすぐに断念した本など、いくつかあるわけだが・・・余談だが、読み終わってない本があるということは、本棚が持っている魅力そのものである)。これからは総合資格の勉強に当てなければ。実際総合資格の勉強が楽しい。試験のためってのもあるけど、ここから膨らませていけば、単なる知識以上の経験ができそう。

といいながらも、次のお目当てはくどいようだがコルビュジエ本。あと、ハイデガーの『存在と時間』をもう一度読み直したい。あの迷宮を、あの神秘をもう一度経験したい。なんでだかわからないが、私は本から離れられない。本を読んでいる時間って結構苦痛だったりするのだが、それでもまた読むんだなこれが。

その考察はまたにして、今回は撮ってきた写真たちについてぼやく

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これは新宿御苑で見つけた水飲み場。西洋の抽象画みたいで面白い。しかも苔が生えてたりするあたりがかなりリアルで、絵画以上の絵画性(なんだそりゃ?)を感じた。新宿御苑はもともと皇族のお庭。もしこの水飲み場が戦後、あるいは戦前に持ち込まれたなら、それはいたってアヴァンギャルドであったに違いない。新宿御苑って日本庭園もあればフランス式、イギリス式の庭園もあるけど、世界中の美しいものをコラージュしてできた公園だったりして。そうだとすると、日本の「皇族」という定義も、少し面白いものに見えてくるように思う。

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新宿御苑帰りの新宿の裏通り。巨大な谷間に、光り輝くブリッジが!ただそれだけなんだけど、やたら白く輝いてたので撮ってみた。

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朝通勤時に見る風景。オオハンゴン草らしい。オオハンゴン草は『北の国から』に出てくるので、どこか寒い地域の植物だと思っていたが、近所にたくさん咲いていた。この日はやたら寒く、身体も縮こまっていたのだけど、この黄色を見て元気になった。なにか、朝が来るのを祝福してくれたみたいな気がして・・・

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ビルのミラーガラスに映し出された、建物の狭間。巨大百貨店とその駐車場の組み合わせなのだが、このように歪に映し出されると、何かXYZ軸がぶらされた感じになる。建物の表層というのは一見すると「おまけ」な感じがしないでもないが、実際には、うまく設計すれば、思いもよらない効果がある。まぁ、このミラーガラスに、こういう風景が映し出されるとは、設計者も想定していなかっただろうけど。

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最後は、車のショールームのファサード。角がそぎ落とされ、そこがスクリーンになって映像が流れている。どうしたって、建築そのものよりこのモニターに目がいく。モニターは建築のファサードの一部と化している。しかし、それはコンセントを抜いてしまえばそこで終わり。建築に限らず、コンセントが抜けても、しっかり存在意義があるものを作りたいものである。

会社は暖かい

2009年10月26日 21:53

月曜日である。また新たな一週間がスタートである。私も例に洩れず日曜日は憂鬱なわけだが、今日会社に行ったら、社内が暖かくて驚いた。そりゃ完全に空調で調整しているのだから当たり前なのだけれど、これだけ寒い日だと、そんなことがありがたく感じる。

この世の中で、空調で制御された空間はどれくらいあるのだろうか。

世界中で考えれば、ごく僅かに違いない。しかし私は、大学時代よりそうした密閉された温室のなかで育ってきた。本当はそういう空間は好きではないのだけれど、とりあえずそういう空間で育ってきた。寒い日に「暖かい」という感じる空間は幸福な空間に違いない。なんだか、そんなことを思いデスクにつくと、とりあえず今日一日頑張ろうという気になるのであった。


追伸(Yくんへ)

ブログ本、完成おめでとう!僕もそうだったけど、すごくうれしいものです。プレビューも見たけど、やはり本として手に届くのが待ちきれない。でもただってのはなんか悪いなぁ(汗)とは言えお金を払うよりは、今度会った時の貸しってことにした方がよい気がする。今度会った時何か奢るよ。
それから、執筆で生きていきたい(前に「それで生きる!」と断言してしまったけど)私としては、Yくんのホームページ見て、目からうろこでした。ビジネスになってるもんね!なんかそんな感動も覚えたYくんのブログ本でした。
首を長くして待ってるよ~

ウィトゲンシュタインのぼやき

2009年10月25日 17:45

20世紀を代表する哲学者はマルティン・ハイデガーとルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだと言われている。その理由を私は知らないが、私なりに考察するには、彼らが近代人が暗黙のうちに美化していた「人間」を内面から破壊し、再考したからであろう。たとえばフーコーやデリダだってそうとうな影響力を持っただろうが、(語弊を恐れずに言えば)彼らの思考はニーチェ(1900年没)が説いたニヒリズムを相対化したに過ぎない。近代の哲学を破壊したのはやはりニーチェで、その問いに誰も答えることができなかった。ハイデガーやウィトゲンシュタインが別格なのは、相対化という流れを汲みながらも、それ固有の理論を収束させたという点だと思う。無論、両者の哲学とも未完であろうが、それも含め、彼らの思考は独立した強さを持っていた。

たいして哲学について知らない私がこんなことを述べたのは、結局のところ、私が彼らに惹かれるからだ。だからこの本を衝動買いし、読破した。

『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』 著:ウィトゲンシュタイン 編:イルゼ ゾマヴィラ 翻訳:鬼界 彰夫

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これはウィトゲンシュタインの哲学日記。彼の日々の心情が綴られていると思いきや、何か外部に対し主張するような、いわゆる哲学書のような様相を呈している。最初の日記を読み始めて、すっと引き込まれた。どこか、私がイメージしている文体と似ていた。すぐに、これはウィトゲンシュタインの「ぼやき」(哲学と言い換えてもいいけど)だと分かった。冒頭の文章を抜粋してみよう。


一九三〇年四月二六日

いくばくかの勇気なしには、一度たりとも人は自分自身に関するまともな考察を書くことはできない。
私は時に思う、
自分は一種の精神的な便秘を患っている。それともこれは、腹の中に実はもう何もないのに吐き出したいと感じる時のような幻想に過ぎないのか?
私はとても頻繁に、というか、ほとんど常に不安で満たされている。
私の頭はとても興奮しやすい。今日マルガリートから誕生日にハンカチをもらった。どんな言葉であっても、そのほうが私にはもっとうれしかっただろうし、そしてキスだったらさらにもっとうれしかっただろうけど、それでも私は喜んだ。
今生きている人間の中で、彼女を失うことは私にとって最も大きな打撃だろう。私は軽はずみでこう言っているのではない。というのも私は彼女を愛している。あるいは愛したいと願っているからだ。(P.22)



彼の『論考』などの著作と異なり、文章が簡易で(それは翻訳の問題かもしれないが)、読みやすい。それと同時に、この本(日記)を読んでいったところで、何かに行き着くわけではない(まぁ日記なので当たり前といえば当たり前だろうけど)。そしてそういう書き方を彼自身意図していたらしい。

この本の巻末に、この日記に関する考察があるが、途中まで読んでやめてしまった。考察すること自体は悪いことではないだろうが、この哲学日記は、ある種の「詩」のような趣があり、何かしらの断定的な事実に結び付けたいとは、私は思わなかったからだ。

なので私自身もこれ以上何か書くこともないのだが、この本のなかで、哲学という存在自体の定義を語っている箇所があったので抜粋したい。私が以前からずっと思ってきたことでもあるので・・・


哲学の仕事とは、無意味な問いについて精神をなだめることである。そうして問いを抱く傾向のない者には、哲学は不要である。(P.55)


最近思うことだが、もし私に他人に負けない武器があるとするなら、みんなが当たり前にできることができず、当たり前に分かることを理解できない点であろう。それは一般的には欠点だが、私の世界観は、常にそこから広がってきたし、私が何かしらの評価を受けた点は、みんなが暗黙に理解していることを「わかりません!」と言ったことばかりだ。ただ単に「価値の転換」と言われればそれまでだが、否応なくこれからも付きまとうであろうこの問題に対して、自分はそう思った。

あと、声を荒げて部下をしかる上司にはこの言葉を差し上げたい(あ、別に私の上司ではないよ)


お前は腹を立てている、ゆえにお前は間違っている(P.224)


ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも同じことが書いてあった。


追伸(Yくんへ)

やっぱ買おうかなコルビュジエ本(笑)。議論の場については、いろいろ考えてみます。でも、なんかmixiはやだなぁ(苦笑)

獲得された風景

2009年10月24日 23:51

朝5時45分に目が覚める。平日の起床時間。なんとなくいつも身体が緊張しているのだろうか。週末になっても、頭のなかにノイズが走っている。会社にいるとき、雑用でデスクを抜けるときは、正直落ち着く。普段電話が鳴るたびに応対し、上司には気を遣い、ハキハキと働いている姿を見せなければいけない身分なので、くだらない雑用でもほっとする。

思いついたことをどんどん記すと、最近堀部さんの本をやたら見ている。あの本には、やはり何かしらの求心力があるらしい。この問題については、少しずつ楽しみながら考えたい。何だかわからないことについて考えること、それは私にとっても極上の遊びである。

で、今日はURYCの報告。一次調査終了です。

アクソメ

まず俯瞰図。完成させたという次元なので、まぁ見てくださいという感じですが、中心にそびえ立つのが、もう少しで竣工する高層マンション。となりのスーパーマーケットとともに開発地区なのだが、スケールの違いがすごいです。

うさぎ屋ラーメンから

アイレベルで見ると、巨大な要塞がそびえ立っているのがわかる。車が吸い込まれていくよう。

最上階より

一番面白かったのはこの風景。これは巨大マンションの最上階から俯瞰した我が町。これまで、周辺から柔らかく隔離されていた病院施設(茶色)が、なんともあらわになっている。病院だし、上から見下ろされるのはどうかと思うけど、どうなんでしょ・・・。

ちょっと話を大げさにいえば、人類が建築を作ってきた目的のひとつは、この「見下ろす」という優越感、というか権力の保持みたいなところにあると思う。CGで再現しているとき、こういう風景は全く想定していなかったが、しかしCGで作ったからこそ、こういう風景が想定できた。かっこよくいえば「獲得された風景」(『思想としての日本近代建築』参照)、ある意味、近代という問題構成を感じ取れる。

しかし、調査するにあたって自転車こぎながら、片手に赤ペンでもう片手に地図とくりゃ、住民は怪しみますね(苦笑)。特に困るのが、住宅街の袋小路。調べるためにはそこまで入らなければならないんだけど、明らかに不審者。でも、調査ってそんな感じですよね。


追伸

Yくん、みんなで議論できるような場、という話、楽しみにしています。堀部さんの本、Yくんが惹かれる理由がなんとなくわかる気がします。下北の部屋の机の下にあの本があったとき、なんでこの建築家に興味を持つのか、よくわからなかったけど、最近は少し時間があると、その本を眺めていたりします。でも、やはり最近やたらコルビュジエに惹かれるので、作品集を買いたいですね。まぁそういう楽しみがあることはいいことです。はい。

なぜ、あなたは哲学を学ぶのか?

2009年10月23日 21:52

今日は上司たちと設計についての打ち合わせ。私の案をプレゼンした。専門知識が乏しいので、完全に説得させることができないのだが、大学時代と違って、現実にたつ建物として、そしてその設計者としてプレゼンをした。受け入れられるかどうかより、そういう場にいる自分が不思議だった。とてもエキサイティングなことでもありながら、やはり胃が縮む思いでもあった。


家にいるとき、時々Youtubeで適当に何か見るのだが(実際は既に見たことのある『情熱大陸』を繰り返し見ていることが多い)、このあいだ爆笑問題と哲学者の木田元が対談していたのを見た。木田元といえば、私にとってはハイデガー研究者として偉大なお方で、もはや偉人と言っていいような方だったが、そんな人が、爆笑問題とフランクに(?)哲学について語っているのが不思議だった。ただ、こういう番組を見ていつも思うのが、テレビのなかで、言葉で、誰かに哲学を語る哲学者は、本当に、普通の人間に見える。そして、それと同時に、彼らの哲学の本質は、口頭では一切伝えられていないようにも思う(もちろん口頭でこそ伝えられる人もたくさんいるけど)。

そんな番組を見て私は思った。私なら、どのように自分の哲学を説明しようか。そこで私はゲームをしてみることにした。なに、昔からずっとやっている遊びだ。ひとり遊び。心のなかで、誰かと会話するのである。

議題は「なぜ、あなたは哲学を学ぶのか」

確かに私は学生時代哲学の本を読んだ。特に一時期は、意味もわかっていないのに、むさぼるように読んだ。その理由を、長々と脈略なく誰かに語った。その時の私の言葉を再現する。


私は昔から、周囲の人となかなかなじめない性格であった。子供頃の幸せな風景と言えば、雨の日の家の中。外で遊ばなくていい、家のなかでずっと積み木遊びができる。私はひとり、私だけの世界を浸り、その時間を楽しんだ。外で遊んでいる時も、みんなが遊んでいる砂場の隅で、自分だけの空間を確保し、皆に背を向け、ひとりで山を作っていたように思う。

だからといって、友人がいなかったわけではない。親友と言えるような人もいたし、よく友達と遊んだ時期もあった。だけど、やはり周囲との違いは感じていた。みんな、大なり小なり感じるのだろうが、私も私なりに感じていた。

中学、高校になると、家にいることが何より至福だった。中学はいろいろな意味できつかったが、それでも家にいられる時間があることが、日々の楽しみであり、目的だった。

学生時代はそれでよかった。どんなつらいことがあっても、自分だけの時間を確保できれば、それで満たされていたからだ。しかし学生時代は大学の6年間で終わる。すると、私は就職しなければならない。もちろん就職でない道も考えたが、私はこう見えて(?)長いものに巻かれるタイプでもある。特に昔はそうだった。社会に対し背を向けておきながら、完全にひとりでは遊べない。そう、雨の日の家が好きだったのは、家族が一緒だったから。砂場の隅で遊べたのも、母がそばにいたからだ。しかし働くということは、みんなと外で遊ぶことであり、ひとつの砂浜で、みんなで砂山を作ることなのだ。まったくもって、私の世界観と真逆なのだ。

その「就職」という問題にぶち当たった時、私は他人との違いについて、何かしら考え、解決しなければならない状況に追い込まれた。しかし、この問題の難しいところは、周りの人は応えてくれないということである。なぜなら、一般的には外で遊ぶことは楽しいことであり、それに対し、疑問の余地がないからだ。当たり前のことを、当たり前でないこととして考察する必要性。それが私の哲学の入り口だった。

哲学を考察するうえで、私はまず、自分の内面性について考えた。なぜ私は他者と違うのか。そもそも他者とは何か。他者と接続されるこの世界とはなにか。その媒介となる時間とはなにか。そして、そもそも「私」とは何か。これらの問いを、私はハイデガーに託した。そして現象学的に、存在や時間、他者、世界というものに、私なりの答えを出していった。

しかし「私とは何か」という問いを「私」がやっている限り、それはトートロジーでしかない。だから、その内面性の追求の逆照射として外面性、つまり社会性について考えるようになった。たとえ今の環境が現象学的に「正しくない」としても、その状況に陥っているのには何かしらの理由があるはずだ。是か非かではなく、そうなった背景、つまり構造についての関心がわいた。それこそが、私にとっても歴史研究の本義であり、ニーチェ、フーコー、バルトらに惹かれる所以であった。

この内面性と社会性という、相反する二つの問いが、常に私を監視し、調整してくれている(誰だってそうだ)。だから、ハイデガーに陶酔するときは、私が社会性に萎えている時だ。逆に歴史を相対的に見ているときは、自己というものを見失っている時だ。誰もが当たり前にやっていることができない私にとっては、そういったことをひとつひとつ解決していくしかなかった。哲学を学ぶという選択肢を選んだのではない。選ばざるを得なかったのだ。

だから「哲学を学ぶとどんないいことがあるか」という疑問を持つ人には哲学は必要ない。当たり前のことが当たり前にできるのだから。ただし、当たり前のことが当たり前であるのは、あくまで今、ここでの一時的な状況でしかなく、もっといえばそれすら幻想でしかないのだ。常に価値は動き、転倒を繰り返す。哲学的思考を持たない人(哲学を学問として学んだという意味ではない)は、そういった状況に差し掛かった時、まったくもって対処できない。人間が何か大切なものを失うときってのは、そういうときである。

私は正しく生きたい。そんな生き方などないとしても、やはり正しく生きたい。そう思うのであれば、哲学を学ぶ意義は一片でもある気がする。

中野本町の家 1976

2009年10月22日 23:36

夫を亡くした設計者の姉と、娘二人のために作られた家。設計当初は母と娘たちが向かい合うよう、L 字型の配置が計画されたが、設計が進むにつれ、中庭に対し閉じられた、U 字型のリニアな住宅へと移行した。この過程を私は以下のように考察する。当初は残された母と娘、三人が「生活」するための住まいが想定された。しかし、その後「父」という「不在の存在」に気付かされる。父の存在は日に日に増していき、中庭は父が住むための空間として穿かれた。父というvoid の周縁に家族は置かれた。それは生活するためではなく、「生きながらえるため」である。void を中心に回廊がまわる。部屋それ自体も、モルフェームによって流動的になる。生活は、結果的に残った余白である。この住宅は、父というvoid によって形成された余白の住まいである。しかし、それは決して暗鬱とした思考ではない。中庭に唯一開かれた窓。そこにあるダイニングテーブルには、八つの椅子がある。この家の住民は三人である。しかし、それ以上の人々が、このダイニングテーブルで会話をするのだ。その閉じられた中庭を介して・・・

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