「あれ系」のジレンマ

2009年08月31日 23:55

最近会社でアイデアコンペをやっているのだが、なんというか、不思議なジレンマに陥っている。学生時代私が忌避していた、いわゆる「ポコポコ」系とか「ふんわり」系とかばっかり浮かぶ。私は「あれ」に積極的な意味が見いだせなかったため、アイデアコンペなどやるものではないと思っていた。それに時間をかけているくらいなら、歴史的名著を一冊読んだ方がよっぽど身になると思っていた。

「あれ」系が出てくる理由はいくつかある。

? 周囲の人々が「あれ」系であるから
? コンペに通らないから(審査員が妹島さんや藤本さんなため)
? そもそも(狭義的な意味で)建築に期待をしていないから

なんというかジレンマである。


追記

Yくんの名前をなんとなくGoogleで検索したら、ちゃんとしたホームページが出来てました。コンセプトも面白かったけど、本棚がよかったね。前に恵比寿のアパートに行ったことを思い出しました。
僕は今、週に一、二度東京理科大のI研に通っています。台湾の研究プロジェクトに入れてもらい、理科大の後輩の指導をしつつ、自分の勉強としています。やっぱり僕は研究者なのだと、最近殊に感じます。
今日は急に寒くなったけど、御殿場はもっと寒いのでしょうか?身体に気を付けて健康体で。最近それがもっとも重要なことだと思う。んじゃね。
スポンサーサイト

ゴーストライターになりたい

2009年08月30日 22:58

自民党の歴史的大敗だそうである。前にも述べたが、私は政治家には別段関心がなく、あと「顔」的には自民のほうがいいなと思っていたので、あんまり面白くない。それ以上に面白くないのは、テレビが選挙で埋まっていること。ああ、つまらん。

『1Q84』を読んでいた時は、それだけで楽しかったが、読み終わってしまうと手持無沙汰。新建築も都市計画学会の雑誌も読み終えてしまった(というかそれほど面白くなかったので本棚に戻した)。ふと学生時代を思い出す。あの時もそうだった。修士論文を書き終え、本を読むことしかやることがない。しかし建設業に就職する身で哲学の本なんて読んで何になるんだ、なんて考えていた。今もそう。私はこのままのんのんとしていれば、食いっぱぐれはない。むしろ、何かを目指し、路線変更したほうが大変。学生時代と同じだ。

学生時代に幾度となく襲われた感覚だが、私は何を目指しているのだろうか。今日もこの疑問に立ち返った。何をしたいのか。そして何ができるのか。

私は自分の本棚を一通り見渡し「これだ!」と手に取った。現代都市論の名著『錯乱のニューヨーク』である。この本は30年ほど前にレム・コールハースが著したものだが、いってみれば現代社会の予言書的な役割を果たしてしまっている。

090830.jpg


この本のすばらしいところ・・・というか私を惹きつける点は、彼が都市の「ゴーストライター」であるという点である。現代都市において、都市計画者(つまりライター)は不在であり、そこに建築家が介在できないような情勢が続いている。そこで彼は構造主義的に隠れた、そして欲望的な都市の計画を論じて見せた。う~ん、エキセントリック。

私は、やはり社会に何かしらの影響を与えるものを書きたい。与えるというか、それだけの質をもったものを。現代において都市計画者が不在ならば、それを構造的に論じるゴーストライターは、ある意味現代の都市計画家であるといえないだろうか。

すでに2回はこの本を読んだが、もう一度読み直したくなった。なぜなら、この本は「乗り越えられるための書」であり「裏切られるために予言」であるから。しかし、もう一度読むというのも何なんで、最近出版されそこそこ売れているというユリイカのコールハース特集を明日買いに行こう。やはり私は、活字の海に浸っていたいのだなぁ。

更新される風景

2009年08月30日 11:28

今日は選挙日である。私は選挙会場である昔通った小学校を訪ねた。雨が降っていたので歩いていくことにした。文字通り、私は通学路を歩いた。

小学校までの道のりは、郵便局に行ったりすることがあるので、それほどご無沙汰ではない。しかし、小学校まで歩くのは何年振りだろうか。自転車に乗っていても見える景色は同じだが、歩いていると、それが実体として見えてくる。流れゆく風景ではなく、現実にそこにあるものとして。

ひとつひとつ家を見て歩く。少し窓が開いていて、レースのカーテンが風でなびいているのをみると、ここには人の生活があるのだと感じる。私はのぞきが趣味なわけではないが、電車の車窓などから、家の中をのぞくのが好きである。特に夜、無骨なアパートのポコポコあいた「穴」を見るのが好き。どんな平凡な建物でも、それが人を包む空間となり、冷たいコンクリートをとても温かく感じる。以前、広島平和記念公園に訪れた時、突然雨が降り人々がピースセンターのピロティ下に集まった。その光景に私は驚いた。これが建築ではないか。人々を包むこと、支えること、それが建築ではないかと思い、驚いたのだ。

それから家を観察すると、ディテールが気になる。現実の建築の設計に携わっているせいであろう。窓のおさまりなど、よくみるとおかしいものが多い。人の目は、どんなに目を凝らしても見たいものを見たいように見ているにすぎない。何かを学ぶと違う風景がそこに現れる。それを強く思った。

それは数か月前の坂倉準三展を見に行ったときもそうであった。純粋に図面を眺めるのが面白かった。そして、その延長というわけではないが、何年かぶりに『新建築』を買った。新建築を欲した理由は、先ほど述べたようにどんなにつまらない計画でも、最近図面を見るのが好きだからである(というか勉強になるから)。そしてもうひとつは、会社にいると今日本の建築界(建設業界ではなく)がどうなっているのかてんでわからなくなってしまうからである。(大)企業というのは、開けているようで開けていない。そりゃそうだ。俺らは社会のために仕事をしているのではない。お施主さんのため、お給料を与えてくれるありがたい人たちのために働いているのである。OMAが何をしようが、MVRDVがどうであろうが、私にたちには関係のない話なのだ(さびしい限りである)。

090829-2.jpg


新建築8月号のなかで、藤森さんが坂倉準三について書いている。藤森先生の仮説では、近代建築の結晶として世界中に広まったミースのスカイスクレーパーのもとは、坂倉がパリ博でつくった日本館ではないかという。う~ん、さすが藤森さん。なんというか、ほかの歴史家には言えないことを「ぽっ」といってしめえるところがすごい。それを歴史学として証明するのは至難の業だし、もしそうだとしたら、建築史自体切り替わることになる。

それを単なる藤森仮説だと冷笑する人もいるのだろうが、私は藤森さんの歴史観が好きだ。正鵠を得ているかどうかは別として、夢がある。夢がなければ、何を語ってもつまらないからである。

リアリティ

2009年08月29日 21:55

今日、村上春樹『1Q84』の2巻を読み終える。なんというか、やはりすごい小説だと思う。爆発的に売れる理由がよくわかる。

090829-1.jpg


その要因は、おそらく小説内に没入できるということではないだろうか。話の流れや展開もそうであるが、環境の描写や会話の感覚、時間の流れ方が、われわれの日常以上に日常的であるように思う(というのも彼が描いている世界はあくまで非現実だからである)。

その証拠に、私は彼ら(登場人物)の名前や生き方、生活スタイルをこと細かく覚えている。手に取るように、そして実際に私がそこにいたかのように。

宮崎駿は、映画が単なる映画で非現実的なものだと観客が気づいた瞬間、映画は崩壊するといっていた。小説もそうだ。それがただ、誰かが書いた文字の羅列でしかないとわかると、とたんに面白くなくなる。

そのように書いてみると、建築もそうであるとわかる。とくに最近の建築はそのように思う。お話としては面白いし、プレゼンもうまい。ただそれはアイデアコンペ程度に抑えておくべきで「現実に建てなくてもなぁ」というものが多い。

宮崎駿や村上春樹にある「空気感」。それはいつの時代も作品として必要条件なのかもしれない。そしてそれはいつまでも言語化できない。私は文章を書くのが好きだが、言葉で表現できないものにひどく惹かれる。

理解できないのではない 理解する気がないだけだ

2009年08月29日 11:54

昨日、社内の図書館でコンペの資料収集として(少なくとも建前はね)、『a+u臨時増刊 MVRDV FILES Projects 002-209』を手に取った。

090829.jpg


なんというか、ひどく久しぶりの感覚に襲われた。「どうしたら新しいものが作れるだろうか、どうしたら社会を変えられるだろうか」という、以前学生時代に毎日、電車の中でも常に考えていたことである。

会社に入ると、覚えることがたくさんあり(最近わかったことだが、どれほど長い期間在職していても、細かいディテールとかは全体的に把握できないらしいが・・・)、新しいものを創造するということに欠け・・・いや、その必要性を失っている。

それに新しいものを提案したところで、それを相手が理解してくれなければしょうがない。しかもその相手が自分の好みでしか建築を考えないのであれば、そこでアウトである。創造的なるもの(なんか古い言葉に聞こえてしまうところが悲しいが)など、生み出せようがない(現にこの前のコンペプレゼンで、コールハースのラ・ヴィレット公園案を基礎に、プログラム的な錯綜性を持たせようとしたのだが、それは上の人が理解できないと一掃された。理解できないのではない。理解する気がないだけだ)。

社会に入ると、自分はヒエラルキーの底辺に置かれる。だから、発言権がない。そしてこの状態は数十年続き、いざ自分がトップに立つと、あらゆる責任に囲まれ、もはや身動きできなくなる。その繰り返しが、日本の社会主義的な企業を生んできた。しかし、もはや企業の予定調和的な未来など存在しない。うちの会社も、昨年より案件量が半分ほどに減った。

・・・私に何ができるのだろうか。この世界に対し、私には何が。学生時代、必死に考えていたこと。そしてそれは会社内では考えなくなったこと。でも、考えなければならない。たとえそれが無駄な努力でしかないとしてもね・・・

設計者はきらいだ

2009年08月28日 23:15

大変語弊のある発言ではあるが、私は「設計者」があまり好きではない。

無論誰を「設計者」とするかという議論はあるが、ここでは「批評なくデザインする者」とでもいいかえておけばよい。

設計者の価値判断はそれが「イケてるかどうか」である。カッコイイかカッコ悪いか。そして、その「カッコよさ」を、あたかも普遍のものであるかのように錯覚する。現実には一部の建築オタクがそれを好むだけであって、ただの井戸端会議でしかない。しかし、「本当はそうではないのではないか」という疑いの目、すなわち批評性を持たない人々は、建築なき現代において、さらに細々と生きていかなければならない。

誰もが共有する「カッコよさ」が(たとえそれが後々虚構であったと暴かれたとしても)存在したのは1980年代以前の話である(藤村龍至に言わせれば「1995年以前」である)。それ以後は、もはや「カッコイイ」「イカシテル」といったデザイナー本位の考えは無力となった(ちなみに藤村はそれを指摘し、いわゆる建築家のセンスでジャンプアップする設計手法に警報を鳴らす)。

レム・コールハースらはそれを指摘し、攻撃した。「建築は消滅した」と。私はその意見に同調する。もはや、彼の「予言」を無視できるような状況ではない。建築は資本主義に溺れ、資本主義に撃退された。

現在会社で行われているコンペの会話で、建築の議論は「カッコイイ」かどうか、「イカシテル」かどうか、でしかない。その議論自体、時代遅れだ。まぁ、やりたい人は好きにやればいいと思う。別段、誰にも害は及ぼさないのだ。なぜなら、そういった議論そのものが「力なき愛」でしかないのだから。

問題は、私もそのなかに加わらなければならないことだ。私は今、それで飯を食べているのだから。ああ、大変。


快活な身体の作り方

2009年08月27日 23:59

私はいろいろなことに影響を受けやすい。現在読み続けている『1Q84』の中に、人間の身体に関する記述が出てくる。日々身体を鍛錬し、ある一時を待っている。そのように書くと三島由紀夫を思い出す。彼は切腹したとき血が放出しないように腹筋を鍛えていたらしい(それが最たる理由ではないだろうけど)。何にしろ、日々の鍛錬というものは身体を快活にさせる。

まぁそんなことを考えていたのと、最近私の胴体に浮き輪ができてきたので(ため息)、その除去のため、今日早朝身体のストレッチを行った。筋トレは週2回やっているが、どうも私の太り方は、根本的に身体の筋肉を使っていないことにあるようで、なので筋トレだけじゃなく、身体を全体的に伸ばすことが重要ではないかと(特に何の根拠もなく)思った。

たった数分のストレッチでも、身体を心地よく目覚めさせてくれ、そして一日が楽になった。まぁまだ初日ということもあり、この状態が毎日続くとも思わないけど、とりあえず明日からも続けてみようと思う。

最近平日会社でのストレスを週末に求めている。しかしこれはよくない。そういう意識でいると、平日がだるくなる。今日は軽やかだった(周囲から見れば何も変わっていないのだろうけど・・・)。非日常を追い求めるのではなく、日常から少しずつ変えていくことが、今の私には必要に思う。建築だって社会だってそうだ。目の前にあることを捨象して、理想を実現することはできない。自分の足で一歩ずつ、しっかり大地を踏みしめなければならないのである、と今日思った。明日はまた全く別のことを考えるんだろうな・・・

永遠という名の星空に抱かれ

2009年08月27日 01:32

昨日、残業が入り若干遅れたものの、東京発18時20分の新幹線に乗り、仙台に20時50分に着いた。彼女と仙台駅で落ち合い、牛タンを食べた。その後ホテルで一泊し、翌日早朝、建築学会の大会で彼女の発表を見守る。午後は松島に赴き観光。夕方に仙台にもどり夕食がてらまったりし、20時54分の新幹線で東京に戻る。

仙台での時間を可能な限り確保しようとした結果、仙台での滞在は24時間と4分であった。

以前私は卒論の研究の中で、ハイデガーの存在論を持ち出し、「本来的な時間」(=「生き生きとした時間」)は、出来事との「遭遇」によって測られると考えた。ただ、その「遭遇」とは数値化不可能な概念であるため、人間は世界を把握するため、時間を数値化し、客体化したのだと論じた。

仙台での24時間4分は、まさに「生き生きとした時間」であった。それは数々の彼女との遭遇であった。何人の彼女と出会ったか。無論、私は浮気をしたわけではないので、彼女は彼女ひとりだけであるが、私は数々の「彼女」と出会った。それが時間を豊かにした。24時間4分は、限りなく永久に近く、また一瞬であった。

今回の旅は、非日常への逃亡であり、それだけではなかった。この旅で、私は大きな目標を、否応なく見つけてしまった。それは、単に努力すればどうにかなるものではなく、実に重荷のある、大きな目標である。

東京駅から終電に乗り込み、0時過ぎに最寄駅に着く。衣服が入ったスーツ用鞄と、普段会社にもっていく鞄、そして彼女が半分セレクトしたお土産を両手に、私はいつもの家路を急ぐ。

その途中に、小高い丘がある。このへんぴな町で、私が気に入っている場所である。そこからは空が大きく見える。今日は満天の星空だ。そう言えば、松島の空も雲ひとつない快晴だった。

数えきれない星たちが、美しく輝いていた。何をかはわからないが、どこか、私の何かをキラキラと美しく照らしているように思えた。私は星といえばオリオン座くらいしかわからない。でも、それは星そのものの美しさとは無関係だ。今日、私は満天の星空に抱かれ、祝福に包まれた気がした。もちろん、それを祝福とするかは、私の今後の努力次第なのであるが。

未来へ

2009年08月23日 18:05

選挙に向け、各党の政治家が自身の政策を主張する。いや、政策というよりも他党の罵り合い。本当に政治をする気はあるのであろうか?

最近は彼女と会うことが、私にとっての生きる目標になってきている。これが「目標」であるならよいが「逃げ道」であってはならないと彼女に言われた。正直「逃げ道」に近いようにも思える。(新入社員の研修期間だからしょうがないが)私の席から見える会社の(というか建築の)行く末には、明るい未来は感じられない。というか未来そのものがない気がして、その逃亡域を彼女に求めているようにも思える。日本の建設業に未来はなくとも、私と彼女の間には、無限の未来があるので・・・

一昨日の金曜日、激動の一週間を終え、花の金曜日であったが、映画『20世紀少年』の地上波放送を見て、途中で寝てしまった。それはいいのだが、今週(だったかな?)にもパート2を放送するらしい。今回上映される最終章の集客を図るためであろう。その作戦自体至極当然のことであるが、でもそういったサイクルが早まっているように最近思う。つまり、拝金主義だ。映画だって収益が見込まれない時代、とにかく集客を促すことに躍起になる。それ以外は特に問題ではない。

そういった状況が続けば、社会はいつか破綻をきたす。というか、それを先の金融危機で我々は経験したはずだ。しかし、たとえ歴史はそう語ってくれても、われわれはその教訓を真として受け止めない。いつの時代も、力をもたない歴史はおとぎ話でしかない。

下馬評によれば、今回の選挙は民主党の圧勝になるらしい。正直いやな気分になる。自民党がそれほど優れているとも思えないが、それ以上に民主党が優れているとは思えない。ただ、私の場合、現在の職務状況にほどほど満足しているということがある。労働時間にも、給与にも、仕事内容にも。だから、それほど何かが変わってほしいとは思っていない(仕事以外の点では最近いろいろ変化があるので、むしろ仕事面では安定していたい・・・まぁしばらくはね)。

でも、仕事はない人や(だれに聞いても建設業は本当に仕事がないらしい)仕事に満足していない人にとっては、とにかく「何か」が変わってくれないと困る。自民党は戦後「変わらない」ということを骨子としてきた(らしい)。だから現在は、政策うんぬんではなく、政治家うんぬんではなく、「自民党」というイデオロギー自体を廃止しなければいけないという結論に至るのである。選挙自体もそれに応えるかのように、これからの社会像より、選挙後のことを論じる。今現在国民が「ひぃひぃ」言っているのに、遠い未来を語ってはどうしようもない。しかし、未来を語れない政治家など、もはや政治家ではない。

昨今のそんな社会を憂う。それに対し、私に何ができるかを考えなければならない。ぼやくだけなら誰にでもできる。それを理論化し、「力」に変えることが歴史家の仕事である。

明日、また新しい彼女が現れる

2009年08月23日 01:37

ここ数年、というか実質的にはほとんど「お付き合い」というものを私は経験してこなかった。なので付き合っている人を見ると「付き合う」ということが一つの契約事項のように感じられ、ひとつフェーズアップしているように思えていた。

私はいま「お付き合い」しているわけであるが、正直付き合う前より、焦燥感は増しているように思える。(のろけ話ではなく哲学ととっていただきたいが・・・まぁ恋愛は哲学だろうが)彼女がどうもきれいなのである。容姿もそうだが、素振りや気の遣い方が美人である。私としてはとても幸福なのであるが、それと同時に不安を覚える。

「付き合う」ということがひとつの契約のように思えていたが、それと同時にそういう状態に私はなりたくないと思っていた。ひとは常に生まれ変わる。昨日の自分と、今日の自分は他者である。それを同一者と幻想することによって、私たちの日常は、ある意味安全で、ある意味平凡な生活者となる。

私は彼女の「新しい彼女」に日々出くわす。まだ付き合いが浅いということもあろうが、毎日、いや事あるごとに、私は新しい彼女と遭遇するのだ。

契約とは安定であり安心であるが、それは墜落でもある。私は「生きる」より「生き生き」としていたい。それには不安は付き物だ。モノ作り(生産物にせよ現象にせよ)の原点は「不安」である(と私はハイデガーから学んだ)。

私は今「生き生き」している。その分、不安も募る。そしてその分、私はまた「生き生き」する。


最新記事