諦めること

2009年06月28日 18:28

午前中、マックで勉強する。日曜日のマックは家族連れであふれていたが、驚いたことに、冗談じゃなくほとんどの家族がニンテンドーDSを持っている。・・・というか、本当に子供全員が持っているんじゃないかな?

ドラえもんの映画で『ブリキの迷宮』という作品があって、機械文明を成熟させた人類は、文明を発展させるためのロボットを発明し、いつしかそのロボットたちに地球を乗っ取られるという、子供向け映画にしては非常に残酷なストーリーを展開している。

地球環境も機械化していき、徐々に人間の住む環境ではなくなるが、それは心配ご無用と、ロボットたちは人間に、どのような環境でも生きていける移動型カプセルを作り、その密閉されたカプセルのなかで何不自由なく暮らせる環境を用意した。

面白いのは、多くの人間がそのカプセルを称賛したということである。日々の通勤や仕事、学習や運動、あらゆる労働から解放された人間は自由になれると勘違いしたのである。結果的に人間側の知能レベルは下がり、筋肉は衰え、ついには人間社会は没落するのである。

映画では、ドラえもんたちがそれを食い止めるハッピーエンドなのだが、これは仮想現実ではなく、もはや子供たちに襲いかかっている現実のように思う。マックにいた子供たちは、もはやDSなしには時間を過ごせないかのようであった。

私の話をすれば、私は小さいころゲームがほしかったが、母親は買ってくれなかった。母親は私にレゴやプラレールをたくさん買ってくれた。子供の教育上、母親はゲームは反対だった。

だけど、小学校も中学年になると若干困った問題が起きた。私はそれほど記憶にないのだが、友達の話題がゲームになってしまい、会話についていけないと私が言い出したらしい。母親は困り、結局サンタクロースがゲームを持ってきた。私はその時の感動をよく覚えている。

母親は、子供が社会に遅れ、協調性がなくなるのをおそれた。だからゲームを買い与えたのである。でも、母は今でもゲームには反対である。まずゲームをしている時の目つきが悪いこと、そして、暗黙のうちに「リセット」という機能を覚えてしまうこと。

昨今の若者に責任感や決断力がないのは、「失敗してもリセットできる」というゲームで身につけた感覚にあるのではないかと母は言う。そうかもしれない。いや、私はゲームではなくパソコンのCtrl+Zという機能にそれを見ているのだが・・・

でも結局ゲームを買い与えた母の判断は正しかったように思う。自分の理想を貫くのではなく、子供が、子供たちの環境のなかで生きることを母は優先させてくれた。

私が尊敬する人は、ほとんど結婚し子供がいる。私は構造主義者だから、それを単なる「偶然」ではなく、何かしらの「必然」であるととらえる。そして私が得た結論は「彼らは結婚し子供を育てることで、多くのことを諦め、と同時に、何かしらの理想を持つことをやめなかった人である」ということであった。だから私は、好きなことを好きなようにやって、それがあたかも自由であると主張する人を好かない。好かないというだけで、否定はしないけど(俺が否定したところで何にもならないし)

だから、私は子供を育てた人を尊敬する。もちろん単に子供がいるということが育てたということにはならないと思うし、子供がいなくとも、立派な人はいる。あくまで、大枠の話である。でも、「諦め」というのは共同体のなかで生きていく上での必要条件である。まぁ結果的には「理想をもった現実主義者」という宮崎駿の言葉を繰り返しているにすぎないのだが。
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近代的環境建築

2009年06月27日 19:45

何もない休日である。ということは、一級建築士の勉強である。昨日からの真夏日で、2階にある私の部屋は温室と化している。いやぁ、やはり日本の夏を乗り切るには庇を深くしないと。とかいって、冬はその快適性を享受してるんだけどね。

一応、私の部屋にはエアコンというものが完備されているのだが、あまり家のなかでエアコンも冷気に浸っているのは好きではないので、例によって図書館に向かう。

着いてみると今日は休館日。今月いっぱい、工事の関係で休館らしい。とはいえ、家に帰ってエアコンのスイッチを押すのは気が引けるので、どこが喫茶店を探すことにした。

図書館からちょっと離れたところに、結構大きいマックがある。そこを目指したのだが、今日は休日の昼間、家族づれでごった返している。これは無理。

そこで、数年前にできた典型的な郊外型ショッピングセンター、イトーヨーカドーに向かう。でも案の定、家族づれの嵐である。フードコートは子供であふれ、逆にそれにまぎれて25の男が勉強していたら、周囲の子供に失礼な気がした。

どうしようかと考えていたら、ヨーカドーの角にスタバが併設されているのに気づく。スタバに入ると、ここは老人ホームの休憩室かと思うくらい、お年寄りがたくさんいた。あとは買い物を終えた家族や、家ではできない愚痴をしあう主婦たち。人見知りで友人ができないと悩みを相談する若い女性。まぁ、総じて言えば田舎の風景で、スタバといえば都心か海外でしか利用したことのない私としては、なかなか面白い風景であった。

ただこれが、勉強するにはなかなかよい。というのも、図書館で静かに学習していては、外部からの情報が何も入ってこないが(それを「集中できる環境」というのだろうけど)、スタバにいると、いろいろな人の話し声が聞こえて、なかなか気晴らしになる。今日は法規の勉強だったので、そう頭を使うこともないため、特によかった。

人ってのは、やはり社会に接続していないとストレスなんだろうなと思う。これだけインドアな私がいうのだから、結構確かなことのように思う。問題はあくまでその接し方であって、やはり社会というものを捨て去って、孤独に生きるということは、本人がそう思っていたとしても、現実には何かしらの方法で接続されている気がする。

今日、彼女からもらった植物の鉢に虫がいた。われわれにとって、部屋のなかにいる虫は害虫にすぎないが、植物に寄生する虫は(それが植物にとってよいのかどうかはわからないけど)そうして、社会と接続しているわけだ(なんだかハイデガーの「世界・内・存在」みたいになってきたな)。

建築とは、さまざまな環境が作り出す社会との接続性を、一枚の壁によって再構成することである。そして、その再構成は人間のために行われて時、近代建築は生まれた。近代建築の終焉が語られ始めたのは、環境を再構成するという、建築(=近代建築)の役割を、たいていの部分で果してしまったからのように思う。コールハース的に言うと、後のポストモダンニストは、その建築が必要とされた時代の延命処置をしていただけである(まぁシニカルに言うとね)。

Less is More が示すように、人類同士の最小公約数を見つけて、それをある普遍的な解として建築家する運動がモダニズムであった。ただ問題は、その「人類」が結局のところ「西洋人」でしかなかったことにあるのは周知のとおり。その批判というのが、後期のモダニズムに現れるわけだけど、でも結局のところ、モダニズムは最小化の試みであり、だから、それほど美しい風景は近代建築家には作れなかったように思う。

でも私が思うのは、結局のところわれわれにできるのは「最小公倍数」を見つけることでしかないということ。多様性とか地域性ってのは(まぁ資本主義の力が強いとだめだけど)結果的に生じるものだと思うので。

私は単純に考えて、「人類のための建築」から「環境のための建築」に切り替えればいいのではないかと思う。それはエコとかではなくて、あらゆる環境の最小公倍数を見つけるという近代建築の方法論に乗っ取って、その視野を広げることである。

われわれ建築家ができることというのは、結局のところ、われわれが把握できる限りの環境を整理し、その最小公倍数を見つけ、そこに壁を建てることでしかない。だから、その壁が必要ないなら、建築家は不要である。

ただ、最近壁といえばドアのチリが何mmとかそんなことばかり考えている生活なので、とてもじゃないが「環境のための建築」(何度も言うがエコじゃないですよ)なんて無理である。うーん・・・まぁ一級の勉強が先かな?

群衆のスタジアム

2009年06月27日 00:15

今日は同期と野球観戦に出かける。巨人対ヤクルト戦 東京ドームである。

結果は7-2で巨人の勝ち。ヤクルトの応援であったので、まぁがっくりといえばがっくりである。

野球を見に行ったときに感じるあの高揚感は何なんだろうと、今まで考えてきた。だけど、今日ふと単純な解に至る。「群衆」である。人の群れが熱気を帯び、スタジアムに熱風と緊張感をもたらす。スタジアム自体は、それを演出する場として機能する。

でも、冷めた目で考えてみると、大の大人がスポーツして、それを金払って見てるって不思議な光景だと思う。だって、彼らがどうしようが、正直私の人生にはなんら関係ないのだから。

だけど、どういうわけが僕らは、利益を求めず、他人の奮闘に熱狂する。それは、仰々しい言葉を使えば「無償の愛」である。

こういうと内田樹先生になってしまうそうであるが、僕らの共同体は、そうした「無償の愛」によってできているように思う。利害関係ではなく、利己的でもなく。ただ、僕らが生きていく以上、何かしらの方法で生産性を得なければならない。だから「無償の愛」は、時として、非常に危ういものである。

しかし、その危うさをカバーするために、また共同体は強化される。そして強化された共同体は、一瞬の危うさに陥らないよう、一夜の熱狂として、その場をおさめる。今日試合後、飯田橋の駅に駆け込んだ群衆のように。

そうしたサイクルは常に繰り返され、反復されてきたのであろう。そしてこれからも。基本的に人の生き方など、そう変わらないのだろうなと思う。

ニコニコ怒られる毎日

2009年06月24日 00:33

私は最近、上司に出す報告書の内容で訂正を受け、よく怒られる。だらだらした文章を書くのは好きなのだが、カッチリとして文章を書くのは、どうも得意ではないらしい。

たぶん新人のなかで一番怒られているのは私なのであるが、怒る上司はいつも笑っている。呆れているのかもしれない。もうすでに見放されているのかもしれない。わからないけど、いつもニコニコしている。

はたから見ていると、その光景は楽しそうに見えるらしい。怒られているのだけれど、そう見えるらしい。

仕事ができ万能で、上司の叱責が入り込むすきのない人と、仕事ができなく無知で、上司にニコニコされながら怒られる私。もちろん前者でありたいと願うが、意外に後者の方が将来大物になるんじゃないかと、自分を励ます。

いつかの地を想い

2009年06月22日 20:20

今日、家路につくとテーブルの上に、安っぽい広告にまみれ「建築」の写真があった。私の大好きな建築――そして、今でも私のなかで解けない問題作ともなっている建築――ルイス・I・カーン作『キンベル美術館』である。

おや、と思い裏返すと、友人からの誕生日カードであった。彼の言葉はいつもながら真面目で、無邪気で、散漫で、きれいな文体である。大きな文化ホールの壁面に飾られるよりも、となりの小さなスーパーの「父の日にお父さんに感謝の気持ちを書こう!」コーナーにあってほしい言葉である。

読み終えると私は「私も書かなければ」という気持ちになる。メールでも電話でもブログでもない。このはがきに応えられるのは、はがきでしかない。

そして、その葉書がデジカメ写真を紙に張り付けたものではなく、現地で購入したポストカードであると知る。共に旅したアメリカの地と、あのとき流れていた時間を懐かしく思う。

最近、学生時代の風景が懐かしく思われる。ただその多くが、自分ひとりで過ごした風景である。一人旅に疲れモロッコを臨む港町の喫茶店や、神保町のスタバで購入したばかりの本を読んだ風景。孤独と寂しさとむなしさと、苦いコーヒーが混ざったような風景である。

2年前に、ふたりでアメリカを横断した。だけど、その風景も私の記憶の中にある。ふたりでいても、お互いに孤独と寂しさは感じていたように思うし、むしろそれが感じられるよう、お互いの時間を尊重したようにも思う。

宮崎駿は「映画は不機嫌なときに作る」といった。この両義的な言葉、好きである。

カードありがとう。

ニヒリストに陽があたる時

2009年06月21日 17:46

至って私事であるが、先日彼女ができた。数年ぶりである。

正直困ることがある。このブログである。

このブログは、社会に揉まれ、社会的システム化していく自分の救済措置として開設した。だから、私は「ひとり」なはずであった。だけど、今はそうではなくなってしまった。今は、批評的であることよりも、進歩的であることの方が重要である。簡単に言うと、「幸福とは何か」と問うよりも、「どうしたら幸福になれるか」と問う方が重要である。

批評的であるには、やはり孤独でなければならない。なにせ、批判的まなざしで、あらゆるものを考察するのであるから。ニーチェは「思考することそのものがニヒリズム」と言ったが、正直ニヒリズムがなくなりかけている。とてもいいことだし、幸福なのであるが、大学時代より建築だけに没頭してきた(ただモテなかっただけですが)自分としては、少々戸惑い気味である。

とはいえ、彼女は自分のそんなとこを評価してくれたらしい。まぁでなけりゃこんな男と付き合わんだろうし。

・・・内面をさらけ出すことがこのブログの趣旨であったし、今後否応なく彼女が出てくるだろうから記述してみたが、やっぱり違和感があるな・・・(苦笑)

まぁでも、明日からまた仕事。そして、それに並行して一級建築士の勉強。どっぷりニヒリズムに浸れるから、まぁいっか。


ピュアな身体

2009年06月20日 18:31

本日は午前中に皮膚科と歯医者の用事を済ます。どちらも痛い。でも、こういう用事は、土曜日の午前にしか済ませられない。

以前私は、医療の力を借りることのない、無垢な身体こそ正しいと思っていた。だから、歯に詰め物をしたり、眼鏡をかけたりするのは、そういう状況をつくっている環境自体が元凶なんであって、それは誤った姿であると感じていた。なんとも古典的で近代的な思考である。

でも、歴史を学び、哲学を学ぶにつけ、それは近代人が生み出した幻想でしかないということを知ることになった。(哲学者でいえばドゥルーズ・ガタリあたりの思考であろうが)人間は本来的に矛盾を孕んでいて、一つの身体や思考の中に、相容れないベクトルを持っているものなのである。


「ピュアな身体」

美しいが、悲しいかな、少し懐かしく思えてしまう言葉である。


疲労困憊

2009年06月16日 23:43

プレゼン研修2日目が終了。Kくんお疲れ様。自分の意思を貫くあなたの姿は感動モノでしたよ。いやほんと。

それに引き替え私は、なんともうまくいかない。というのも、私は(少なくとも今現在は)デザインに根拠が持てない。もちろん自分の好きなデザインはあるけど、でもそれはただそれだけの話であってそれ以上ではない。今日ファサードデザインで自分なりに考えていたら、G長に説明を求められ自分なりに説明したが「それはあなたの主観でしかないんじゃないの?」と怒られる。でも、今現在正直デザインそのものに社会性を私は見いだせない。だから、自分のデザインを人に売り込むことはどうもきつい。でも、それは自分に自信がないことの言い訳のようにも思う。まぁ、いいわけをするために理論を学んでいるようなところはあるしな実際。

それでも最近思うのは、自分のキャラ(?)が周囲に理解され(?)、下手の愛想笑いしなくて済むようになった。入社当初、愛想笑いを浮かべるのにほっぺの上の筋肉がやけに疲れた(笑)。最近あの疲労は完全になくなった。あぁラク。

にしても、まだ今週2日目なのに疲労がやばい。一級建築士の勉強もはかどらず。何をやるにも目の前のことを一つずつクリアするしかない。とにかくキーボード打っている暇があったら、机の向かうべし。

矛盾を内包する顔

2009年06月16日 01:23

本日はプレゼンの研修があった。先日の一級建築士模試で撃沈した僕であったが、今回の研修では絵がうまいと周囲に少し褒められた。自分は絵の才能はないが、全く下手ではない。まぁ、絵描き(あるいは建築作家)になりたいわけではない私にとっては、これくらいの絵の能力があれば最低限やっていける。

さて、先日の坂倉準三展の帰り、お茶の水の南洋堂により、レム・コールハースのDVDを購入する。以前からちょっとほしかったものであるが、定額給付金も出たし、一級の勉強の休憩にと購入した。

DVDは2枚組になっている。ディスク1は、「レム・コールハースとは」的なレムの思想や生い立ちを追っている。構成は、なんといくか「S・M・L・XL」の動画版という感じで、コラージュされた映像がたくさん出てくる。映像自体の構成も、プリコラージュ的。説明するっていうよりも、それ自体で作品という感じである。

ただ僕としてはディスク2のほうがよっぽど面白かった。ディスク2では、「ディルク・バッカーとの対談」「アスター・プレイス・プロジェクト」「『カーサ・ダ・ムジカ』空撮映像」が収録されている。

090615.jpg


まず対談が面白い。レムは以前書いたように、アフォリズムの建築家である。だから何かしらの問いを発することはしても、その明快な答えを求めていない(逆説的に求めているとも言えるけど)。だから、レムは文章をよく書く。そして、それは時として建築作品よりの影響力がある。それに対し、会話というのは、あくまでお互いが意思疎通できているということが大前提となる。お互い好き勝手言っていては会話にならない。

だから、対談中レムはどこか不機嫌な様相を呈す。というか、対談に限らず彼のなかには、矛盾が内包されているように思う。どこかひんまがった顔をしている。現代という時代と、そのなかに埋もれそうな建築家という矛盾を、彼の表情は引き受けているように思う。

このインタビューは、おそらく記事にしてもそう面白くないであろう。ただ、彼の表情や間合い、空気感は文体ではわかりえないことであるし、それが今回のDVDで感じ取れたからよかった。

坂倉展以降、モダニズムの視点から建築や都市を見ることを決めたが、レムの視点の中にはモダニズムがある。そして、政治や経済といった広い社会的視野のなかで、建築という「側面」に言及している点も偉大である。建築家のアトリエで修業したいとはそんなに思わない私であるが、OMA(あるいはAMO)でなら1年くらい働いてみたい。そういう意味で、これからの目標の一つが見られてよかった。

DVDは5500円という高額であった。映像を買うことがあまりない私としては、この値段が相場なのかよくわからないが、まぁそれなりに高いことは高いので、見たい人はご一報。

住宅とは掃除である

2009年06月14日 20:48

パッと見そうは見えないらしいが、私は結構ミーハーである。先日内田樹先生のブログを読んで以来、掃除を心掛けるようになった。といっても、具体的に掃除したのはまだ一回である。でも、掃除した後の床は気持ちいい。

私は(そしておそらく私以外の建築学生も)以前から疑問に思っていたことがある。モダニズムの住宅とか、あるいは最近の手塚さんの住宅とか、ああいう大開口を持つ住宅は、蚊も入れば、すぐにほこりまみれにならないだろうか・・・と。

なんとなく、以前建築好きの学生に「そりゃこういう建築は手塚さんみたいでカッコイイけどさ、これ掃除どうすんの?」と冗談半分で聞いたことがある。その学生は「建築家の作った家だからしょうがない」と答えた。まぁなんと建築よりの意見であるか。

実際はどうだが知らないけど、まぁやっぱり掃除するんだろうね。もしくは実際には窓は閉じておくのかな・・・?写真撮るときだけあけるとか・・・?

以前建築史家の藤森照信さんが「日本の農業ってのは、結局は草むしり」と言っていた。農業を全く知らない私が言うと説得力ないが、藤森さんいわく、日本の気候風土では雑草が育ちすぎ、それを排除することに膨大な時間と労力が必要らしく、稲刈りとか農業らしい面は、全体からみるとそう大きなシェアを占めないらしい。

住宅に住むことも同じかもしれない。「住む」という機能を満たすために、それ以上の膨大なお掃除が必要なのだと。私に関して言えば、それをずっと母がやってきてくれている。一人暮らししたとき、何もしないだけで部屋に埃がたまっていくという当たり前の事実に驚いたが、母は常に掃除をし、私が生活できるようにしてくれていたのである。

以前は「ケンチクケンチク」言っていながら、自分の家に全く関心を示さなかった。だけど、ここ数カ月は自分の家をいかに住み心地よいものにするか考えている。せめて自分のまわりくらいは掃除をしよう。それが「住宅に住む」ということなのであるから。


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