帰郷・・・そして収穫

2009年04月30日 21:58

研究室に遊びに行き、久々に教授と会った。なんというか、まぁ変わらない感じですね。

後輩とは就職相談。結局5時間ほどぶっ通しで話していたことになるが、まぁ先輩の帰還とあって、みんなやさしいですな。そういう場所は大切にしないといけないですね。

後輩と、名のある建築家でコネか金がないやつはいない的な話をする。こちらから吹っ掛けたわけではないですよ(笑)流れでそうなったんです。だから、建築は大変だ~って話していたら、結構とんでもないことがわかった。

ちょっとプライベートなことでもあるので、詳しくは言えないのだが、私の研究室の教授と私の会社の社長はつながりがあった。なんというか、コネができてしまった・・・(笑)

この世ってのはまったく・・・
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一級建築士の問題集に肘を立て、私はぼやく

2009年04月30日 00:34

ゴールデンウィークに入った。新入社員ということもあり、今年はなんと8連休。とはいえ、一級建築士の勉強でいっぱいいっぱいであり、8連休くらいでは全然足りない算段となっている。

最近ことに感じることだが、社会に出ると数値的な評価ということが重要となる。コミュニケーションだの積極性だの、なんだかんだ言っても、結局はそれが業績に表れなければ意味がない。

社会とはそういうものだろうとあらかじめ考え、ならば学生時代には数値では証明しきれない世界観を追及しようと目論み、特に卒論では、「意味がない」ということに意味を見出し、まぁなんというかそれらしくやっていた。今からみれば、なんと拙い論文だろうと思うが、自分を恥じることはない。哲学なんぞ、自分のニヒリズムを前面に押し出したものであろう。私の卒論も、私なりの哲学だった。あくまで完成度が低かっただけであり、後悔の気持は全くない。

社会に対する反骨心(そんな大それたものでもないが、まぁ血気盛んな若者の言葉として受け取ってもらいたい)にもほとほと飽きがきて(というかそれではやはりだめだと思い)、修論では人に評価されるものを目指した。とりあえずの評価は受けた。

そんな学生時代を送っていたから、自分の成績なんてなかったし、それぞれがやっていることに優劣をつけるということをしなかった。最近思うが、これは非常に恐ろしいことだ。だって、自分がいかに低能でも、なんとでもいいわけができるのだから。そうして他人の評価を気にしなくなった瞬間、三島由紀夫が描きた金閣寺のように、世界は相対化され、自分だけの「生」しか感じることができなくなってしまうのである。大変恐ろしいことである。

私は天才ではないので、そういうことにはまぁならないと思うが、でも数値的評価は、なんというか安心するものではあるわけですよね。だから、ああだこうだ言わずに、一級建築士の勉強に励みます。

建築は言語である

2009年04月29日 13:07

仰々しいタイトルの割に、内容が乏しいのはいつものことである。だけど、「建築とはなにか」と聞かれたら(誰も別に聞いてくれないけど)、「それは言語である」と最近思う。

そう考え始めたのは、建築が言語であったことが自明でないと、最近気付いたからである。簡単に言うと、建築の話を最近していない。建築の話っていうのは、どの建築が好きかとかそういう話ではなくて、「如何にして建築は建築たるべきか」という話である。

前々からさんざん愚痴っていることだけど、正面切って建築を語る場が正直ない。基本的に何かを学ぶことは好きなので、会社の業務は楽しいし、先輩の話も楽しいが、それを消化し、外部へ放出する方法がブログくらいしかない(一級建築士の勉強で忙しくて、自分からそういう機会をキャンセルしている場合が多いのだが・・・)

昔からだが、「どうしてそんなに元気がないの?」と言われることがある(苦笑)。元気はいつもあるし、毎日が楽しい。同僚に「そんなんでお前何が幸せなん?」と冗談で言われ、(こういうのは私の悪い癖だが)「いつも幸せなんだけど俺」と答える。だってそうなんだもん。するとみんなに唖然とされた。そういう返答をしたこともそうなのだけれど、みんなは仕事は面倒くさいらしい。だから、楽しみを求めてはっちゃけるらしい。

宮崎駿がいつかのドキュメンタリー番組で、スタジオから見える森林が、午後の光に包まれたとき「ね?世界は相変わらず美しいいんですよ」と言った。私もそうだと思う。ハイデガーを読んだりすると、世界が存在することそのものが、いかに奇跡的で神秘的かわかる。わかるというか、そのわからなさに感動するのである。そういう世界観に浸りたい。

あまりそんなこと期待してはいないのだけれど、やっぱり真剣に建築を語りたいと思う。なぜかって、それが社会のためになるとか、いい建築につながるとかそういう正当論ではない。その理由はただひとつ、私にとって建築とは言語だからである。


追記

明日久しぶりに母校に帰ります。いろいろ用事は済ませてきます。ちなみに私は自己紹介で「やる気がないように見えますが、頑張ります!」と自虐的受けを狙うことが多かったのだが、「あなた以上にやる気がある人はいないわよ!」と真剣に言ってくださったのが私の研究室の教授。そういう人たちはあくまで社会のマイノリティーで、そうじゃない人たちが社会のマジョリティだと感じた私は、研究室の残るのではなく社会に出なければと思ったのだった。久しぶりにあの場所に帰れるのはすごく楽しみである。

「建築知識」より知識以上の問いをいただく

2009年04月26日 15:15

何か本を読みたいと思い、仕事帰り本屋に走る。目当ての本はなかったのだが、まぁなんとなく給料日ということもあり、一冊買って帰った。

『建築知識 写真とビデオでわかる![建築基準法]再入門』

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まだ本は読んではなく、ビデオを見たのだが、建築基準法の話もよくわかってまぁよかったのだが、なんとなく面白かったのはそのなかで紹介される建築物である。

ビデオのなかでは、建築基準法がいかに適用されたかを説明するためにいくつかの建築物が紹介されるのだが、どれも設計事務所が建てたからか、デザインがされている。それが、なんとも私には不思議な光景であった。

(失礼ながら)そのなかで紹介されている設計者はメジャーどころではなく、たぶん(特に建築学生や一般人は)みんな知らない人である。でも、設計された建物を見ると、なんというか「それでいいんじゃない」って思う。「かっこいい!!」とは思わないけど、あの窓のプロポーションが崩れた感じは、近代合理主義を相対化しているのかな・・・なんて考えてしまえば、なんとなく意味のある建築に見えてしまう(相対主義に答えはないのだ)。


建築家が建物を建てる意味とはなんであろうか・・・


私はビデオの中で流れる映像を見ながら、その土地に磯崎の都庁を建ててみたいという衝動に駆られる。周囲のコンテクストを捨象し、幾何学的で歪な物体を挿入したいと考えてしまう。どうせ正当論では、今の時代建築は生き残れないのだ!だったら、みんなが「あ!」とか「え!?」とか、多少目をとめてもらえるようなものを作りたいと思ってしまう。それが「良いか悪いか」そんな議論より前に、一般人に建築に関心をもってもらわねばと・・・

思えば私が考えた「八畳の家」は、どことなく磯崎風である。もともとはルイス・カーンのような、やさしい光に包まれた厳かな空間を作ろうとしていたのだが、なんというかニヒルな表情を持った外観になってしまった。

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住民の意識や、周辺環境や、そういった小さな部分から建築を積み上げていることは重要なことであるし、そういう努力を私はしなければならないのだけれど、でも、それって結局作り手と住まい手だけの話であって、趣味を拡大した程度でしかないのではないだろうか・・・?そう考えるのは、そもそも私が建築のプロパガンダ性に関心をもった(コルビュジエの「エスプリ・ヌーヴォー」みたいな)からかもしれないが、なんというか、私は考えてしまうのである。


建築家が建物を建てる意味とはなんであろうか・・・


パラペットにおけるリゾーム的構造

2009年04月26日 00:56

またブログを書く。書く意味はいろいろあるが、今回は会社での興味深い事実をお知らせしたいからである。

興味深いといっても、一般的に受けがよい話ではないと思うけど(笑)、今回はパラペットの話である。

先週パラペットについての講義があり、その詳細について勉強したのだが、なぜパラペットがあのような形状になっているか。それが「前回それでうまくいったから」なのだそうだ。

一般的に組織の設計はある程度ディテールがマニュアル化されているから、そういった詳細に関してはそれなりの性能保証があるものだと考えていたが、新しい現場で同じ工法が採用されるのは、それが最適解であるわけではないということだ。

なぜそういう事態が起こるかというと、失敗したくないからである。

大規模な建設業となると、その請負額は何百億になる。そこで新しい試みをして雨漏りを起こすなら、「前回は失敗しなかった」という保証つきの工法を用いたほうがよい。あとあといいわけにもなるのかもしれない。

近代思想の基盤にあったのは、進化論である。人間は進化するし、社会や歴史も進化しているという考えである。このような思想はとっくに相対化されたけれど、パラペットひとつとってみても、単純なベクトルで社会を動いてないと再認識する。しかも、論理ではなく実態としてね。

その実態を知るために社会に出たのである。同期では、その設計の不自由さに幻滅してたりする者もいるけど、私は逆。そういうことが社会を動かしているのだと思うからね。


追記(静岡のYくんへ)

プライベートな報告ですが、先輩のI氏が仕事を辞めドクターになるらしいですよ。ただそれだけなんだけど、誰かに言いたくて(苦笑)

高性能な空間vs芸術論的空間

2009年04月25日 11:19

昨日、建材のメーカーの見学会にいった。正直感動した。なん変哲もない空間を作るために、音響、断熱、耐火、色調・・・あらゆる要素を考慮した上でひとつひとつの製品が作られている。もちろん、それが売り文句なのだから、当たり前なのだけれども(笑)

でもそれと同時に思うのは、当り前の空間を作る上で、なんと多くの決定事項があることか。そのような建設的状況のなかで、建築空間の多くは次の二択に陥ってしまうように思う。

(1)建材や性能上の評価を考慮した空間となり、芸術論的、空間論的な空間は無視される。
(2)建材などの種類を限定することで、まったく同質の、しかも高性能な空間が量産される。

基本的に(2)の選択肢をとることが多いと思われる。だって、それ以外にも設計者がやらなきゃいけいないことって山ほどあるのだから・・・。売りになる案件には(1)が適用される。それが会社のホームページに流れ、会社の売り文句になるのである。「技術開発にも力を入れています」的なね(笑)

しかし建築家はこの選択肢から逃れたいわけだ。だから、既存製品の規格を超えて、新しい空間を作ろうとする。そうすると、もう大変なわけだ。既存の規格を使うだけでも「ヒィヒィ」言っているのに、それ以上の作業をしなければならないのだから。

インテリアデザイナーのKくんがブログを更新するのは大抵深夜1時半頃。いつも終電で帰るのだろうか。本当に大変だと思う。でも彼曰くアトリエよりはマシらしい。アトリエっていったいどうなってるんだ?

こういった見学会で、言ってみれば建築の不自由さを知ってもそれを面白いと思ってしまうのは、やはり私が研究者だからだろうね(苦笑)でも、自分も世界の建築を見る中で、建築の美しさ、崇高さを知ってしまったうちのひとり。だから、建築ができるフィールドは常に模索していきたいですね。

コンペやろう!

2009年04月25日 00:14

書くのを忘れていたのですが、実は社内研修の一環でコンペをやります。

時期的には8月以降だと思いますが、社内としても「やってみたら」的な感じなので、別にやらなくてもいいのですが・・・

でも、コンペとかそういう対象物があると、建築討論もにぎやかでやりやすいかなと思ったりします。

具体的に何をやるかは決めてないし、やり方も、たとえば僕がひとりでやって、それをブログにアップしてみんなから意見をもらうとか、それだけでも全然有意義だなって思います。

なので具体的に何か意見がある方はご一報下さい。

コンペなんかやっても意味ないよ、でもいいですし、何も返事くれないってのもしっかりとした返事だと思っていますのであしからず

ただ、やるからには当選を目指してやりたいという気持ちはあります。

先日東京都庁についての話を書きましたが、丹下事務所のコンペに対する合言葉は「ぶっちぎりで勝とう!ぶっちぎりで勝とう!」だったそうです。個人的には磯崎案に惹かれる私ですが、今回は丹下よりで頑張りたいです!

では、何かご意見があったらよろしく!! 
                              

コルビュジエから黒板五郎まで

2009年04月25日 00:01

本日は書評

『シュリンキング・ニッポン―縮小する都市の未来戦略』 著:大野 秀敏

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そんなに意気込んで読んだ本ではないので、内容を正確に把握していないが、おそらく、縮小する社会に対し積極的な介入をし、ポスト近代都市計画を模索しよう!ってな感じだろうか。

この本を、とある建築家の言葉で述べると正しいが楽しくない本といえそうである。

確かに人口は減少し、都市のストックが重要視され、近代的でマスターアーキテクト的な都市計画は不要かもしれない。ただ、都市だけでなく、社会や人間は「正しい」方向に生きているわけではない。「楽しい」方向に生きているのである。


世界は論理に従わない。だからこそ、論理的に考える必要がある。


逆にこの本のなかでおもしろかったのは、大野氏の話ではなく、それ以外の活動家の話。建築家や都市プランナーたちが、現代都市を楽しく、能動的に生きることが実践している。詳しい内容は本書をあたっていただきたいが、まぁ楽しみながら都市の豊かさと今後の指針を訴えている人たちである。

彼らのやり方はとても現代的であるし、今の時代に合っている気がしないでもないが、でも私は彼らの論理、すなわち「マスターアーキテクトによる近代的な都市計画は終わった」には賛同しかねる。なぜなら、私にはそれが市民活動程度のものであって、それ以上ではない気がするからである。

もちろんそれでいいと思っているならそれまでの話であるが、でも、あなたたちが都市を「楽しんでいる」間に、その隣の敷地には味気のない超高層が建つんでっせ。

東京丸の内の中央郵便局を思い出してもらいたい。あれだけの名作に多くの建築家が保存を訴えたところで、結局保存を促したのは政治家の一言であったではないか。われわれ建築家は、名作建築のファサードすら守れないのだ。

もちろん楽しみたければそれでいい。でも、それをあたかも正論のように述べるのだけはやめてもらいたい。私は大きな建設業の一社員だが、われわれがなん変哲もない建物を建て続けることによって、何千もの人たちを養い、建設業全体でいえば、日本の景気の一部を担っているのだ。日本が豊かで、都市のなかで楽しむなんてことをやっていられるのも、その根底には日本の建設業の踏ん張りがあるのである。

何度も言うが、別に彼らを否定したいわけではない。むしろ称賛したい。彼らだって身を粉にして一生懸命活動しているのだし。

でも、シュリンキング・ニッポンにしろ、近代建築家批判にしろ、いわゆる近代的なものを批判するのは簡単だが、問題はその代替案がないことにある。コルビュジエ批判もしたければすればいいが、私は彼の都市理論にはいまだに憧れをもつ。彼の方法論ではなく、輝かしい未来像を模索している姿にである。

だから私は、小さいことから始めるのはなく、いわばマスターアーキテクト側から都市や建築を考えてみたいと思った。そして大手建設業に(運よく)入った。

私の部署は地上18階。外には東京タワーをはじめ、日本の都心が一望できる。だから都市の一日の変化がよくわかる。天気の様子や、交通量なども。

その光景に私はほっとする。私は社会から取り残されていないのだと実感する。ただそれと同時に、その高さからだと人が見えない。いわば私は、近代建築家の目線で都市を眺めているのである。

だから将来的に、1フロアずつ下に降りていきたいと考えている。

そして最終的には地面の上に這いつくばって、自分好みの石を、ひとつひとつ積み上げ、社会とは切り離されようとも意固地に生きていく爺さんになれたらいい。

そう、あの富良野鹿郷の五郎さんのように(『北の国から』参照)





やさしさ

2009年04月23日 23:22

明日を含め飲み会3連チャンである。

今日は一次会で抜け出してきた。

新入社員の4月とはいえ、3日に1日は飲んでいる気がする。逆に、まだ実質研修期間のため、社内ではやることがあまりない。あろうことか、今日の大半はデスクで読書。それで給料をもらえるのだから、まぁなんというか気の抜ける話ではある。

基本的に飲み会は好きではないが、でも行くことに意味は感じる。人間の一生を豊かにするのは、どれだけ「無駄」をしたかであると思うからである。無駄とは未知との遭遇である。インテリアデザイナーKくんと仲良くなったのも飲み会である。だから、できるだけそういった「無駄」には積極的な意味を見出そうと頑張っている。でも、同期でそんなに飲みに行かなくてもなぁ・・・苦笑

飲み会において、私は年上か年下と話すのが好きである。同い年はあまり得意ではない。

その理由は単純である。

私は、その場のノリというものがない。だから、人と話すときは、本音で話したい。というか、本音でしか話せない。それが、相手が目上の人なら基本的に「そうっすよね~」と賛同していればいいし、それ以上に私は年配者を基本的に尊敬しているので、くだらない話でもそれなりの意味を感じる。概して、年上の方は話がまじめで、私にはその方が肌に合っているし、人間や社会分析の資料にもなる。

年下はその逆で、「そうなんすか~」ってな感じで私の意見に同調する。だから、それはそれで楽なのである。

つまり簡単な話が、年上や年下だと、本音で話す必要が必ずしもないのである。

しかし同期となると話は違う。同期とではそういった緩衝材が存在しない。

でも、私はその場の雰囲気に合わせて話すということができないが、それ以上に本音で話すということができない。だってこのブログを読んでいればわかるでしょう。誰が私のぼやきに興味を示すだろうか・・・

だから、私の場合は一般解とは逆である。上司と話している方が楽しい。


でも、(こんなことわざわざ言ってもしょうがないが)私はこう見えて、人と話のは大好きである。ただそれは、あくまで本音で話せる相手かどうかにかかっている。

本音で話せる相手かどうかの基準は、私の独断によって決定される(誰だって基本的にそうだ)。その評価基準は「やさしいかどうか」である。

やさしい人とは、何かに自分の人生をかけている人である。そういう人は、自分の限界を何となく悟っているはずである。だから、他人に対して謙虚になれる。だからやさしいのである。

そういう優しさに出会うと、私は無限に語り始める。もちろんそんな時に酒などいらない。水一杯で、私は極上の気分を味わえるからである。


ほんとは酔い覚ましのつもりだったのだが、結局長々と文章を書いてしまった。これでは、学校でいやなことがあって母親にすがりつくただの子供である。

そう思うとなんか悲しくなってくるが、それと同時に思う。

私にとって執筆とは、常に私に還れる場所なのだと・・・


追記

先週、設計部研修の報告書を提出する際に、主査に何度もチェックをくらって怒られた。主査いわく、私の文章は抽象的で話が大きすぎるらしい。目からウロコ。その通りである。

そんな文章に付き合ってくださっている皆々様、ほんとうにお疲れさまです(笑)

机上の建築

2009年04月21日 20:53

本日は書評である。

『磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ 』 著:平松 剛

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この本は80年代後半に行われた東京都庁のコンペのドキュメンタリーである。

感想を述べれば、なかなか楽しかった。とはいえ、内容は磯崎中心でありながら、多くが丹下健三に割かれている。その文章構成が丹下と磯崎の追いたちや経歴などが、断片的に回想され、現在と過去を行ったり来たりしているため、時々読みづらい。しかも、丹下についてはすでに知っていたので、ちょっと退屈しないでもなかった(それはあくまで個人的な感想です)。

それでも面白かったのは、単純に私が磯崎新を敬愛しているからである。というかそれがわかったからである。そして、磯崎の都庁案にも至極惹かれる。

何がいいって、「紙の上の建築」だからである。現実に立つことを想定していないわけではないだろうが、彼が「最終的に残るのはコンセプト、次が模型、その次が図面で実際の建物はほとんど残らない」と述べるように、現実性をどこか欠いており、しかしそうであるがゆえ、圧倒的な意味をもつ建築である。

理論のための建築がある。

そういうと、まさに建築家の横暴である。

しかし磯崎はよくわかっている。建築家は本来的に横暴であるし、社会に流布している一般論を積み上げ正当論を述べたところで、社会が変わるわけじゃない(しかも彼が活躍した時代はそのような厭世感が蔓延していた・・・らしい)。

だから彼は、本能的に建築を作る。理論で建築ができているわけではない。理論は建築のあとにできる。しかし、新しい理論とは言葉で定義できるものではない。なぜなら言葉とは、われわれが社会生活を営む上での共通言語であり、そうであるがゆえに(基本的には)言葉は常に一歩遅れる。言葉がわれわれより先に歩いていては、私たちはそれを使いこなせない。つまり、コミュニケーション・ツールとして機能しなくなってしまう。

だから、新しい世界を言語化するときに、どうしても言葉は理解困難になる。なにせ言葉にしたことがないものを言葉にするのだから(だから哲学者の言葉は難しいのだ)。

だから磯崎は正直で純粋な建築家だ。結局は自分の感性に従うしかないのだということをわかっている。それを「理論」と形容したら、まさに彼の建築は彼の理論のために存在することになる。いや、だれだってそうなのである。ただ、建築家はそれを隠ぺいしてきただけの話なのだ。

でも彼のやり方が現代に通用しないことも私たちは知っている。ニヒリズムでは、現代の空気を感じ取ることはできない。

だから、磯崎新に共感している自分は、まだポストモダンの時期にいるのである。厭世感がどこかにある。だけど、そこからしか、何かを語ることはできないとも思う。批評性があったその時代だからこそ


追記

インテリアデザイナーのKくんが

「デザインの理論というと、ポストモダンだ何がデコンだとかいう話を考えがちです。しかし実務レベルに置いて理論とは「説得の道筋」と思います」

と述べられていた。あっぱれ、その通り!なんというか完敗です(笑)


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