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静かな気づき

2015年07月03日 20:48

静かな日々を送っている。大型案件が終わり、今は小さな現場の監理と、企画設計。企画設計については、風の流れを考慮した屋根の検討をしており、それはそれでなかなか面白い。実際には実現しなさそうではあるが、そこに何かしらの可能性があるなら、精力を注ぐ意味がある。

雑誌に載るような、所謂「デザイン案件」は私は担当したくはない。ひとつには、その「デザイン」というものが、如何にも建築畑の狭義なものであることもあるが、別の理由としては、周囲から色々言われ、その処理だけで一杯一杯になるからである。もちろん、優秀な設計者はそれを乗り越えるだろうが、私にはまだそのキャパシティがない。だが、自分以外の誰かが、そういった案件の担当者に選ばれると、全くジェラシーを感じないかといえばそうではなく、それなりに、嫉妬心はある。

しかし最近、それが徐々に変わってきた。作品として目立つことを、本能的に好まなくなってきた。以前からそうであったつもりだが、いざ設計にあたると、やはり、出来るだけ綺麗なデザインを、誰かがまだやったことがないような設計をしてみたいと、稚拙な欲望がふと顔を出すのであったが、今は、静かに、変わってきた。

自分がやってみたいこと、それは当然のように、私が考えるには素晴らしいと思えることを、誰かが既に設計し、建てられていると、それを幸福に思う。今、私が考えたことが、これまで誰も実施したことではなく、むしろ、これまで何年も、多くの人に触れられてきたものであることの方が、より一層、凄さを感じる。

そして、それは当然のように、私の所有物ではない。そもそも、建築物は設計者の所有物ではないが、どうしても自分が設計すると、そのように勘違いしてしまうのである。しかし、やはり所有物ではなく、限りになく自分の所有物ではないことに、歓びを感じる。

多くの人が触れ、交わり、流れていく中で、その物は透明となり、風化するであろう。朽ちるのではない。風と化すのだ。

これは、そもそも風のイエの概念である。

私はまたひとつ、風のイエについて学び、風のイエに近づいた。

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風と化すために

2015年06月18日 21:02

一年以上前に、書いたスケッチ。風のイエの概念を、パースと図面に落としたものである。

色々な個人的感情があり、自分のなかでまとめられなかったが、しかし、自分なりに発展というか、発見するものがあり、さらに構想が進みそうなので、途中記録として残す。

元々風のイエ構想が持ち上がったのは、もう6年前のことであり、それから、毎日とは言わないまでも、常に頭の片隅で育てて来た概念である。逆にいえば、これだけひとつの建築的思考が、外部的な意味では形式を変えず、ずっと生きている。

当初の構想より、進展があった部分は、下記である。

150618-a-5.jpg

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①上下階同一に、X方向2か所、Y方向4か所耐震壁をバランスよく配置。
②上階の片持ち縁側をなくし、柱を上下階で通す。それに伴い、1階各室のレイアウト調整。
③上階の居間を「冬の居間」とし、下階の居間を「夏の居間」にする。
④和室の概念を、茶室に置き換える。

①は、H邸での体験からである。H邸は、やや構造的に無理をしている。そのためかはわからないが、先の震災で天井がゆがんだ。私はそれを経験し、つまり、愛する空間が軋むのを経験した時、それは残念なことと知った。一般の方からすれば当たり前の感覚であろうが、私はその時、初めて知ったのである。構造がしっかりしていることは、耐震上安全というよりは、私としては、その空間が、段々と「風化」していくときに、その現象を捉える為にも、構造的な構成は重要だと考えるようになった。(書いていて発見したが、風と化すことを「風化」というのか・・・)

②①と同様、縁側の跳ね出しは、明らかにサッシ枠の軋みを促すので、柱は上下階で通し、構造的に安定させる。それにともない、1階は、より外部との接続が図られるよう、土間や半屋外スペースを設けた。

③これはブータンで知った考え方。季節に応じ、住まいを変える。夏は涼しい1階を居間に、冬は暖かい2階を居間に。年に2階の引越しの度に、室内空間が更新され、道具類も整理される。

④明かなる茶道の影響。しかし、まだ図面に反映されてはいない。茶室を考えるとなると、検討事項が山のように増える。故に、今後の楽しみである。


風のイエ構想は、私が考えた、いわば、私の建築家としての生命線なのだが、その変容は、全くもって人との出会いによってである。これからも変容していけばよい。その都度、考えればよい。

乾式湯島産ビオトープ

2014年03月02日 23:33

湯島のビオトープを、とりあえず完成させた。とりあえずというのは、当然のように生き物なので、常に変化するからである。

140302.jpg

小石を敷き、サンゴ石と流木で領域を作り、寒さに強いカモンバを浮遊させた。土を敷いていないため、基本的には「乾式」方法である。水のなかで乾式とはこれいかに、であるが、引越しも容易である。多分・・・

水も、メダカと植物と、その他色々な環境とともに育てたものである。メダカも、しっかり生きている。だから、この水と共に次の地へ行く。行先は、まだ確定してはいないけれども・・・

時を待つ

2014年01月16日 00:00

建つ当てのない「風のイエ」について、いつでも考えている。ひとつの家について、もう4、5年考えている。

耐震壁を設けようと考えている。木造設計の経験がないため、実際どの程度必要が良く分からないのだが、X方向に2か所、Y方向に4か所、左右均等に入れようとしている。(以前はY方向だけであった)

耐震性を高めるということが目的であるが、もっと壮大な目的がある。

色々な建築を見るにつけ、その場所の自然環境(重力、空気、光、熱など)に逆らった建築は、やはりどこかで破たんする。破たんというのは、地震で倒れるとかそういうことではなく、美しさが損なわれる。建築的美しさという意味では、その破たんは、建築そのものの破たんを意味する。

モダニズムの建築は、それで良かったのかもしれない。モダニズムの建築は、未来を想起させる建築である。それは、「未だ来ぬ未来」である。我々は、常に「わたしたち」と距離をとる。距離を置くことで、アヴァンギャルドたり得る。その美しさは、常に届かぬ場所にあるのだ。

カーンの建築を訪れた時、ずっと昔から、私がここへ来ることを待っていたように思えた。常に昔から「わたし」のそばにいた。そんな感覚である。そういう意味では、カーンの建築はアヴァンギャルドではない。

増沢洵は言った。常にアヴァンギャルドであるよりも、時代が建築に追い付くのであれば、それで構わない、と。

私は、その建築が、今後永い間その美しさを保っていることを、最近欲する。以前は、それは傲慢であると考えていた。時代は変化する。その変化を許容することが重要であると・・・

しかし、今の美しさを保持するということは、常に変わらない建築的意義を模索することであり、結局のところ、自然環境ということになるのではないかと思うのである。(自然環境は、常にざわざわ変化することは言うまでもない)

今、私が本当に美しいと感じるものは、遠い昔から美しかったのであり、これからもきっと美しいのである。

浸透

2014年01月09日 22:26

先週、新宿御苑の美しい建築たちに会ってから、また建築について考えるようになった。私は、外部と内部が溶け合う空間が好きである。改めてそれに気がついた。

原広司の一連の反転住居には、いまだに憧れがある。考えてみると、あの建築も建築内部に外部(都市)がある。篠原一男の住宅にも関心があるが、篠原のスケールアウトした空間も、ある意味都市なのかもしれない。しかし、何となくであるが、原広司の建築にはスケール感があり、気持ちの良い空間であるように思える。

最近、湯島の部屋でも内外の浸透が起きている。それは、建築ではなくメダカによってである。毎日、外の水瓶を泳ぐメダカを見て、彼らが生きていることにほっとし、また、時々ガラス瓶にメダカを移し、室内で戯れている。外でボーっとする時間と、室内で外部を感じる環境が出来ている。

小さな生き物によって、私の生活は豊かになっている。



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