18 中銀カプセルタワーマンシオン 2012

2012年03月23日 14:49

言わずと知れた、メタボリズムの旗手黒川紀章の傑作。1972年に建設され、時代情勢に応じカプセルを取り換え、新陳代謝するという思想であったが、2012年現在そのような変化は一切なく、解体か保存かで揺れている。建物内部も腐敗が進み、給湯が出ない。そのため、住民は建物外部共用簡易シャワーを使用する。しかし、それを「メタボリズムの失敗」と断言するには短絡的である。建物外部は変化しなくとも、内部は(あたかも集落のように)呼吸し、変化している。都市に突き出た未来都市は、廃墟と化した宇宙船のようであり、人の生活を保障するというよりも、生活を確保するための最小限の被覆のようである。「機械時代」が終焉(?)しつつある現代。メタボリズム建築はやっと、その「生命」を露呈し始めたのだ。

120323-1.jpg

スポンサーサイト

17 風のすみか 2012

2012年02月06日 00:02

久々に住宅を構想した。これまでの試作品とは異なり、実際に建設することを想定した。
以下説明文とアクソメ。こういった試みは、常に続けていきたいと思う。

[本文]
現実的に都市に住むことを想定した住宅。
「風のイエ」の方法論を用い、増沢洵の最小限住宅スパン(3間×3間)に倣って構成し直す。
上階のみ南北に半間分せり出し、風のイエの核でもある縁側が作られる。
風のイエに採用した空中庭園は現実的な生活を考慮し姿を消すが、階段室にトップライトを設け、生活感に満ちた住宅内にvoidを穿つ。
voidは世界変換装置であると同時に、各室に採光をもたらす。
2階が基本的な生活スペース、1階が従属的な空間というのも風のイエの基本的構成だが、1階は音楽室、納戸とともに第二の居間を設ける。
土間から続くこの空間は、対外的な中間領域として、狭小住宅内の空間的柔軟性を目的とした。
夏は涼しい空間となろう。
家具は元々使っていたものを配置し、プランのひとつの構成要素として散りばめられている。


120205-2-2.jpg

中野本町の家 1976

2009年10月22日 23:36

夫を亡くした設計者の姉と、娘二人のために作られた家。設計当初は母と娘たちが向かい合うよう、L 字型の配置が計画されたが、設計が進むにつれ、中庭に対し閉じられた、U 字型のリニアな住宅へと移行した。この過程を私は以下のように考察する。当初は残された母と娘、三人が「生活」するための住まいが想定された。しかし、その後「父」という「不在の存在」に気付かされる。父の存在は日に日に増していき、中庭は父が住むための空間として穿かれた。父というvoid の周縁に家族は置かれた。それは生活するためではなく、「生きながらえるため」である。void を中心に回廊がまわる。部屋それ自体も、モルフェームによって流動的になる。生活は、結果的に残った余白である。この住宅は、父というvoid によって形成された余白の住まいである。しかし、それは決して暗鬱とした思考ではない。中庭に唯一開かれた窓。そこにあるダイニングテーブルには、八つの椅子がある。この家の住民は三人である。しかし、それ以上の人々が、このダイニングテーブルで会話をするのだ。その閉じられた中庭を介して・・・

100 e-1
PLAN

100 e-2

16 ミクロコスモス 2009

2009年10月17日 22:57

いつからか集め始めた椅子と本、その他私のお気に入りの品々が詰め込まれた私の部屋。入口はまずワシリーチェアが占有している。本来なら「入口」として認められない寸法だが、それ以上に、階段をあがるときに見えるワシリーチェアの輪郭を美しい。その奥にはラウンジチェアが、少し角度を振らされ配置される。角度を振ることで、空間に流れが生まれる。そして1200×750 ㎜のテーブルをはさんでY チェアとセブンチェアが対峙する。この部屋では基本的に一人で過ごすが、テーブルを囲んだ2つの椅子が緊張感と温もりをもたらす。常に椅子と対話しているような安心感がある。この部屋は私が思考し続けたミクロコスモスである。図面化すると、ただ名作椅子を並べただけに見えるが、実際に私はこの空間を、世界のどの場所よりも愛している。私と、私の椅子たちによって、図面という記号の世界が暴かれる。しかしそれは、記号であるからこそ、私はその事実に気付いたのだ。
100 16
PLAN




コアのあるH氏の住まい 1953

2009年10月17日 22:53

モダニズムと日本の生活の超克が図られた革新的な住宅。内部には構造体としての壁がなく、そのため自由な計画が可能となっている。コアを重心として、可動式の間仕切りや家具で空間を区切ることで、連続した平面が風と共に動いている。またコアは従来、立体的な建築言語として近代建築の背骨であるが、この建築では平面的な扱いとなっている。それはあたかも、超高層のワンフロアをとって見せたようにも見える。つまり「住宅」としての閉じられた世界ではなく、近代的なプランの普遍的な解を提示しているようにも思われるのだ。また、その近代性と日本的平面的配置とは別に、このプランはあたかも一枚の絵画のような構成をもっている。窓のおさまり一つとってみても、そこには芸術論的な建築の解釈がある。近代が背負った難題に正当性をもって応えた強度ある作品であるが、そこにひとひらの風が抜けるとき、まさに言語は、風と共に透明になるであろう。その瞬間をとらえること、それが私が「風のイエ」で目論んだテーマであった。

100 d-1
PLAN
100 d-2
SECTION



最新記事